「猫アパート301号室」

 マリアは椅子の背を貼り替えていた。十八世紀半ばのイタリア製であるこの椅
子は、造りこそしっかりしているものの、やはり布部分はすり切れてぼろぼろ
だ。
 その様子を、3匹の猫たちが熱心に見つめている。
 クライアントの好みは淡いピンクなので、マリアはピンク基調のゴブラン織り
布地を購入してきた。実際に椅子に合わせてみると、自分で言うのもおかしいの
だがなかなかいい感じである。
 マリアは鼻歌交じりに作業を進めていた。
 その鼻歌がクリスマスキャロルであることに気が付き、思わずカレンダーに目
をやる。
 

 マリアがアンティーク家具の修復とリフォームを生業とするようになって、実
はまだ3週間足らずである。
 もともとアンティーク家具は好きだった。好きとなったらとことん突き詰めね
ば気の済まない性格であるから、大学や専門学校に通い専門知識を詰め込んだ。
最初は購入した家具を自分で修復するために、と思っての専門知識だった。友人
知人に頼まれて、時折自分のもの以外の修復も手がけるようになったのだが、よ
もや自分のアトリエを開くことになるとは思ってもみなかった。
 アトリエ開業のきっかけは実に情けない話だった。
 


 マリアと同居している婚約者のジェームスは会計士である。そのお堅い職業と
は裏腹に、彼には放浪癖があった。
 といっても、ふらふらと出歩いたまま帰ってこない、という類のものではな
い。
 無類のアウトドア好きなのだ。その上、勤め先が徒歩圏内にないのが気に入ら
ないという質で、勤め先が変わる度に、引越を繰り返すのである。
 アウトドア好きは良いとしても、引越癖にはマリアも呆れてしまった。何し
ろ、勤め先まで電車で三十分のところに住んでいたのに、勤め先まで遠いと言っ
て引っ越したのにも関わらず、その勤め先を早々に辞めてしまうと、また引っ越
すと言い出す始末なのだ。
 その引越の度に、マリアは神経をすり減らして家具を梱包し、自家用のピック
アップトラックに詰め込むのだ。
 そして先月、ジェームスは引っ越し先が決まらない内に会社を辞めてしまい、
挙げ句にはアパートを解約してしまうと言うとんでもないことをしでかした。
 と言うのも、そのアパートは会社名義で借りていたためである。
 とうとう、マリアとジェームス…そして猫たち…は路頭に迷うこととなった。
 ピックアップトラックに積まれたマリアのコレクションが、しばらくの内の生
活費として次々と消えていった。
 それでもジェームスは
 「楽しいなぁ」
 と言い切った。
 マリアは思った。彼女の祖先は農耕民族で、退屈でも安定した生活を営んでき
たに違いない。その血がマリアに脈々と受け継がれてきているのだ。それに引き
替え、ジェームスの祖先は絶対に狩猟採集民族だ。一所にじっとしているのでは
なく、獲物を追いかけて放浪の旅を続ける民族だったに違いない。
 所詮、マリアとジェームスは民族が違うのである。
 しかし、そろそろ年末というころになって、呑気なジェームスも真剣に家を探
し始めた。流石に朝夕の寒さが、身に染みる頃になったのだ。何しろ、マリアと
ジェームスはピックアップトラックの中で身を寄せ合って、夜を過ごしていたの
である。
 
 ジェームスの新しい勤務先が決まったので、その周辺にとアパートを探し始め
た。
 それがなかなか見つからない。
 何しろ、勤務先まで徒歩圏内で、しかも猫が3匹、挙げ句には家具付きの部屋
を、というのだ。見つかるはずもあるまい。
 何故家具付きの部屋を、というと、マリアのコレクションは、この放浪生活で
あらかた売ってしまったのだ。家具を買う金も今はないのである。
 「そんな部屋、あったら私が借りてますよ」
 マリアの勘定が正しければ、今日十二軒目の不動産屋で、十二回目の台詞を受
け取り、マリアは心底疲れを感じてしまった。
 彼女はピックアップトラックを公園の脇に止めた。
 木々はすっかり紅葉し、天気も上々。彼女は猫たちを連れてベンチへ座り込ん
だ。
 ジェームスは仕事に出掛けてしまったし、愚痴る相手と言えば猫たちぐらい
だ。
 猫たちはマリアの愚痴に付き合う気はさらさらないようで、膝の上に乗ってく
ることさえしない。
 途方に暮れるとはこのことだと、マリアは天に向かって溜息を吐いた。
 と、そのマリアの肩を誰かが叩いた。
 振り返ってみると、人の良さそうな笑顔を浮かべた小柄な女性が目に入ってき
た。
 「もしかして、アパートをお探しじゃ、ありませんか」
 マリアはびっくりして、思わず立ち上がった。
 「な、なんで、それを」
 「ごめんなさい。あっちの不動産屋さんの前で、あなたを見かけたから」
 彼女はそう言うと、マリアが十二軒目に訪れた不動産会社の方角へ顔を向けた。
 「え、ええ。アパートを探しているんです。ただ、猫もいますし…」
 マリアの猫たちは警戒の眼差しを、その未知の女性に投げかけている。
 「うちのアパートで宜しかったら、どうでしょう。猫さん達も構いませんよ」
 これはまさに天からの贈り物に違いない。マリアは女性の手を握ると、頭を何
度も下げた。
 「お願いします。ありがとうございますっ」




 そしてマリアとジェームス、それから猫たちは「猫アパート」の住人となった
のである。
 公園で声をかけてきたのは、このアパートのオーナー夫人だった。
 ジェームスの我が儘にもぴったりな立地条件の上、気前よく家具付きの部屋を
貸してくれた。その上、殆どボランティアといえる賃貸料で。
 「その代わり、お願いがあるのですが」
 オーナー夫人がそう切り出したのは、マリアが趣味でアンティーク家具のコレ
クションと補修を行っていたと打ち明けたときだった。
 「うちのアパートには、他にも家具付きの部屋がありますの。で、その。その
家具の補修をお願いできないかしら」
 「私で良ければ」
 マリアは二つ返事を返した。
 
 

 マリアは椅子の補修を終えると、額の汗を拭った。
 このアパートは実に日当たりが良く、冬であっても暖房が殆ど必要ないぐらい
である。こうして肉体労働をしていると、汗が滲んでくるほどだ。
 その時、呼び鈴の音がした。
 猫たちが急いで寝室へ走っていく。どうも彼女たちは人見知りが激しすぎるよ
うだ。マリアは苦笑すると、玄関に向かった。
 玄関ドアを開けると、見知らぬ男が二人、アールヌーボー調のチェストを抱え
て立っていた。
 「アトリエ・マリアさんですね」
 「ええ」
 「お届け物です」
 男達はマリアのサインを貰ってしまうと、そそくさと出ていこうとした。
 「あの。申し訳ないんですが、これ、部屋の中までお願いします」
 
 マリアからチップをはずんで貰った男達は、うきうきと部屋を出ていった。
 残されたのはチェストである。
 それ程背の高いものではない。一番上の引き出しには鍵がかかるようになって
いる。試しに引っ張ってみたが、引き出しは開かなかった。他の引き出しを開け
てみると、封書と鍵が入っていた。封書はとりあえずそのままにし、まずは鍵を
試してみることにした。
 ぴったりと収まり、回すとかちり、と言う音がした。もう一度引き出しを引い
てみる。
 しかし、びくともしない。
 どうやら何かが引っかかって、引き出しが開かなくなっているようだ。
 それにしても、送り主は誰だろうか。
 マリアは送り状に目をやった。
 送り主はオーナー夫人だった。改めて、マリアは先程の封書に目をやった。
 オーナー夫人からマリアに宛てた、それは依頼書だった。
 「一番上の引き出しが開かないので、できれば直してください。このチェス
ト、宜しかったら差し上げます」
 それだけだった。
 頂くわけには、と思いつつもチェストの容姿はまさにマリア好みだ。それ程古
いものではないようだし、くれるというのなら、貰っても良いかとも思う。
 とりあえず、引き出しを直してから答を出そう。
 マリアはそう思いながら、一番上の引き出し以外、全て引き出しを引きだし
た。
 開いた空間に、マリアは懐中電灯片手に、頭を突っ込んでみる。思った通り、
何かが引き出しとチェストの隙間に挟まっているようだ。慎重にそれを引き出し
てみた。
 それは色あせた赤いシルクのリボンだった。さらに引っ張ってみると、案外簡
単に抜けるようである。
 リボンを取り終わり、試しに引き出しを引っ張ってみた。あっさりと開く。
 いささか拍子抜けしながら、マリアは中をあらためた。
 そこにはおそらく、今抜き取ったリボンで束ねられていたであろう手紙の束が
入っているきりだった。好奇心に駆られて、マリアは手紙の束を取り出した。
 いつの間に集まってきたのか、マリアの回りに猫たちが丸くなっている。ふと
目を転じると、冬の日差しが部屋の奥深くまで差し込んでいる。時計の針は午後
三時過ぎを指していた。
 「そろそろ、お茶にしようか」
 猫たちにそう提案しながら、マリアは立ち上がった。手には手紙の束を持った
ままだ。


 クィーン・アン様式のソファに腰掛けながら、マリアは手紙の束を見つめてい
た。どの手紙にも差出人はおろか、宛名すらない。
 「見ちゃおうか」
 悪戯っぽく微笑むと、マリアは最初の手紙の封を開けた。




 今日、私のファンだという紳士から、仔猫を貰ったわ。
 要らないとも言えないし、ありがたく頂戴したんだけど。名前を何にしようか
と悩んでいたら、この仔猫はオスだとアリスが言うので、あなたの名前を付ける
ことにしたの。
 でも、仔猫には立派すぎるとアリスが笑ったわ。それで、猫の名前はジミーっ
てことにしたの。でも本名はジェームスよ。やっぱり、立派すぎるかしら。あな
たの名前じゃ、仔猫に荷が重いわね。
 これで誰にもとがめられず、私は一日中あなたの名前を呼んでいられるわ。





 マリアは手紙を封筒に戻した。
 どうやらこの手紙はある女性がジェームスという男性に宛てて書いたラブレ
ターのようである。偶然にも自分のフィアンセと同じ名前が出てきて、マリアは
思わず吹き出してしまった。
 手紙からは恋する女性の浮き立つ気持ちが、ありありと伺えた。所々、薄い茶
色の染みが点々と付いているのを見ると、どうやらこの女性は香水を振りかけて
から封をしたのだろう。
 今はすっかり香りの痕跡すら残っていない。いったいどんな香りがこの手紙か
ら漂っていたのだろうか。
 マリアは次の手紙を手に取った。




 ジェームス。あなたに会いたいと思いながら、いつもアリアを歌います。アリ
アは哀しすぎて、あなたへの思いが悲劇的にさえ思えてしまいます。
 ジェームス。今度はいつ会えるのかしら。
 今日、ジミーが初めて壁で爪を研ぎました。アリスったら思い切りジミーを叱
るのよ。可哀想だからおやめなさいと、私が言ったんだけど。爪研ぎ用に板を用
意しなかった私が悪いんですものね。
 ジェームス。早く逢いたいわ。





 マリアは傍らで丸くなっている猫の頭を撫でた。
 「そう言えば、この家に来てから、あなた達爪研ぎしてないわね」
 3匹の猫たちはちらりとマリアを見たが、また丸くなってしまう。マリアはま
た手紙の世界に戻った。




 ジェームス。何故返事をくれないのですか。お忙しいのね。
 今日はちょっと疲れました。
 沢山の花を頂いたわ。でもその中に、あなたの名前が入ったカードは見つから
なかった。
 お会いしたいわ。





 マリアは溜息を吐いた。
 幸せな恋人達に、ちょっとした行き違いがあったらしい。だが、手紙の束がま
だ終わっていないところを見ると、この恋の続きはまだ残っているようだ。
 しかし、手紙の内容は急転直下、暗い影を落とすものへと変化していたのであ
る。







 あなたの噂を聞きました。
 おめでとうを言うべきなのね、私。でも、どうしてもそう言う気持ちになれない
の。
 分かっていたことなのだけど。いつか、こうなることは承知していたのだけど。

 でも、ごめんなさい。私は愚かにも、夢を見ていたのよ。あなたと一緒になれる
夢を。どうか、こんな私を許してちょうだいね。
 今日、ジミーは初めてネズミを捕ってきたわ。大きなネズミで、ジミーよりも大
きかったとアリスが言い触らしています。




 誤解しないでちょうだいね、ジェームス。私はあなたと結婚する気はないのよ。
あなたがあのお嬢さんと幸せになってくれれば、私はそれでいいの。
 ねぇ、ジェームス。私は花と歌と恋に生きる女なのよ。あなたも好きだと言って
くれた、ハバネラの歌のように。
 私を捕まえられるのは、あなたではないわ。ましてや、私はあなたのことなど真
剣に思っていたことなんて無いもの。
 今日、ジミーが私の手を咬んだわ。手にあの子の歯形が付きました。この傷跡が
無くなったら、私はあなたのことを忘れることにします。




 ジェームス。何故手紙を下さったりしたの。
 私に憐れみをかけるのはやめてちょうだい。あなたに優しい言葉をかけられた
ら、私はただ、虚しくなるだけ。哀しくなるだけ。
 あなたはあの優しそうなお嬢さんと、幸せになるべきなのよ。私のことはもう構
わないで。




 ああ、ジェームス!
 あなたは私を選んだと言うけれど、私はその言葉だけで胸がいっぱいだわ。お願
い。私をこれ以上、困らせないで頂戴。
 あなたにはあなたの世界があるでしょう。私には私の世界があるのよ。あまりに
もあなたと私の世界は、違いすぎる。
 私の世界は一見華やかだけれど、薄っぺらな舞台装置そのもの。あなたの生きて
いける世界ではないわ。そして私はあなたの世界では生きていくことが出来ない。

 お願い、ジェームス。私はあなたを憎めないの。嫌いになんてなれないわ。だか
らあなたは私を嫌いになって。




 ジェームス。今年もクリスマスが近づいてきたわ。あなたと過ごした時間は、私
の人生の中でもっとも光り輝いていた時だった。本当よ。
 そして、これが私があなたへ贈る、最後のクリスマスプレゼント。
 私の心は永遠にあなたのものよ。ジェームス。







 最後の封筒には手紙の他に、銀の指輪が封入されていた。かなり黒く変色して
しまっている。マリアは金具の手入れをする、シーム皮をエプロンのポケットか
ら取り出した。そっといたわるように、指輪を磨いてみる。
 それはなんの変哲もない銀の結婚指輪だった。内側にイニシャルが彫ってあ
る。
 もっとよく見ようと指輪を取り上げたとき、誤って手紙の束を床に落としてし
まった。バラバラになった手紙の束を、慌ててまとめる。しかしその中に、手紙
とは別の紙が混じっていることに気が付き、マリアは作業の手を止めた。
 それは新聞の切り抜きのようだった。

 「今世紀最高にして最後のソプラノ歌手、死去」
 新聞の見出しに、マリアの心臓は止まりそうだった。


 オペラ座専属ソプラノ歌手、マリア・クラウス嬢が、今朝自宅で亡くなった。
死因は心臓発作とされている。クラウス嬢はもともと心臓が弱かったと、彼女を
看ていた医師ジャービス氏が語っていた。
 遺書が残されていたところから、自殺の可能性もあると一部の関係者は証言す
るが、医師はこれは病死であると診断した。
 遺書には全ての財産はジェームス(ジェームスというのはクラウス嬢の愛猫の
名前である)に贈ると記されており、クラウス嬢の愛猫家振りがまことに悲劇的
な形で証明されることとなった。


 記事の内容はそれだけだった。しかし、マリアの心を締め付けたのはその記事
の内容ではなかった。
 まず日付が、クリスマスであったこと。
 そして扇情的な赤い文字で書き殴られた「マリア、マリア、マリア!」という
走り書きだった。
 全ての財産を贈られたのは猫のジェームスではなく、彼女の永遠の恋人となっ
たジェームスだったのだ。
 だがおそらく、そのことを知ったところでジェームスは彼女の遺体にすがりつ
いて泣くことも、ましてやその遺産を受け継ぐことも出来なかっただろう。
 ジェームスはマリア以外の女性を選んでしまったのだから。
 マリアはもう一度銀の指輪を見た。これはマリアがジェームスに贈ったクリス
マスプレゼントだったのだろうか。それとも、ジェームスが罪の意識から己の指
より抜き取った指輪だったのだろうか。
 マリアは窓の外を見た。
 いつの間にかすっかり日は落ち、寒々とした夜空が広がっている。そろそろ、
ジェームスが帰宅する時間だ。マリアは目をカレンダーに転じてみた。あと数日
で、クリスマスになる。
 マリアは手紙の束を元通りチェストにしまい、鍵をかけた。
 今年のクリスマスは、ジェームスとオペラでも観に行こう。密かにそう心に決
めると、マリアは小さく鼻歌を歌った。



 おわり