+猫アパートの住人+


303号室


三階のエレベーターホールから薄暗い廊下を進むと、その部屋はある。
 黒いドアには小さな看板を掲げてあった。

 曰く「タロット占い・水牛」。

 そのドアを押し開けると、目の前には一風変わった部屋が展開されることになるだろう。
白と黒の市松模様の床に、成人男性の肩の高さまで貼られた黒い腰板。高い天井にはめ込ま
れた間接照明に、ル・コルビュジェの黒いソファ。およそ「占い師」のイメージとはかけ離
れた室内だ。
 そして、運命を切り開こうという活力を持った人間であれば、グレーの猫を見いだすこと
だろう。黒いソファの上で、真円の目を輝かせた、ぬいぐるみのようなその猫を。










 水牛の占いは大変良く当たると、巷では噂になっていた。つい先頃のバレンタインデーで
は、告白するだのしないだの、別れるだの切れるだのと次から次へと男女を問わず、依頼人
が訪れていた。
 そんな狂騒も一段落し、水牛はほんの少し、虚無な日を過ごしていた。

 「大体さ、ああいう問題を人に言うっていうのは、半ばのろけだよね」

 紫煙を吹かしながら、誰へとでもなく呟いた。窓辺に立って、眼下を見下ろすと冬枯れの
公園が目に入ってくる。なんとも寒々しい光景だ。
 水牛は肩をそびやかすと、コーヒーを淹れるためにキッチンに向かう。ふと、その足首に
何かが触れた。

 それは一見、ぬいぐるみと見まごうグレーの猫だった。もこもことした毛衣と、丸い目、
少々への字気味の口元は頑固そうにも見える。
 この猫は水牛の相棒であり、また、この黒い部屋の「先住民」だった。
 
 「ガーシュ、お腹空いたの?さっき、ささみ上げたばっかじゃん」

 ガーシュと呼ばれた猫は、ごろごろと喉を鳴らしながら水牛を見上げた。潤んだ瞳が水牛
の目とかち合った。こうなったら、はっきり言って抵抗は無意味である。

 「しようがないなぁ。特別だよ」

 口では苦言を呟きながらも、水牛はこのちょっとした「悪事」に荷担することを、心の底
から楽しんでいた。
 冷蔵庫から新鮮なささみを取り出すと、かるく湯がき、人肌までさます。そのあとは、
ガーシュの口に合わせて、小さくちぎるだけだ。
 その様子をガーシュは熱心に見つめている。ささみがガーシュ専用の皿に盛られて、鼻先
へ置かれるまで、彼は健気にもじっと待っているのだ。

 ガーシュはささみも食べるし、キャットフードも食べる。しかも、大した大食漢だ。だ
が、彼は前向きに人生を歩んでいる人間の目にしか映らない。また、勘の鈍い人間も彼の姿
を認めることは出来ないらしい。
 すなわち、彼はどうやら幽霊とか、霊魂とか、そういった存在のようだ。もっとも水牛
は、そういうことにこだわるのをとっくにやめてしまった。ガーシュはガーシュである。そ
れ以外の何者でもなく、肉体があろうとなかろうと関係なかった。

 それに、ガーシュには特別の才能がある。その能力とは、未来が予測できることだった。
もっとも、どの猫にもそんな能力があると、思われているだろう。だが、ガーシュの場合は
特別だったのだ。



 「美味かったよ、水牛」

 ガーシュは満足そうに口の回りを毛繕いすると、喉を鳴らしながらそう言った。

 そう。ガーシュは自分の気持ちや意志を、水牛に上手く伝えることができたのである。
 ガーシュを膝に乗せたまま、タロット占いを行うと、殆ど100パーセントの確立で占う
相手の運勢がはっきり分かるのだ。ガーシュが人生を後ろ向きで生きている人間を嫌ってい
ることは、明らかだった。そこで水牛は、自分で何とかしようと本気で思っている人間以外
の占いはしないことに決めた。
 そうすることによって、水牛の占いはますます噂になり、占って貰えることに価値がある
風にまで言われるようになった。











 2月も後半に差し掛かった、ある夜のこと。いつものように、ささみの夜食を食べ終わっ
たガーシュは、いつものようにソファの上に乗った。だが、いつものように毛繕いをするわ
けでもなく、また、水牛に甘えてくるでもなかった。じっと、天井の一角を見据えて、何か
深く考えている風である。
 ふいに彼は考え事をやめると、小さく一声鳴いて消えてしまった。
 目の前でガーシュが消失するのを初めてみた水牛は、しばらく口も利けず立ちつくしてい
るだけだった。
 はっきり言えば、ショックだった。
 今まではどこかへ歩み去って、水牛の目の届かないところで身を潜めているかのような、
そんな消失しかしていなかったのである。それが今、消えてしまった。何もそこになかった
かのように、消えてしまったのだ。
 水牛は、たっぷり3分は、塑像のように立ちつくしていたに違いない。
 ようやく自我を取り戻すと、彼女は部屋中をひっくり返す勢いでガーシュを探し始めた。
 だが、彼の姿は忽然と消えたまま、何処にも現れなかったのである。



 水牛は混乱した気持ちのまま、真夜中を迎えた。ガーシュのことを思うと、とても眠る気
にはなれない。頭ははっきりしているし、肉体的にも睡眠を必要としていないはずだった。



 しかし、いつの間にか彼女は夢を見ていた。



 目の前に、ガーシュがいた。四本の足を行儀良く揃え、かしこまって座っている。グレー
の毛衣が、きらきら輝いていて、いつものガーシュよりも近寄りがたい雰囲気だ。

 「ガーシュ、こっちにおいで」

 水牛が声をかけても、ガーシュは大きな目を見開いたまま、じっと動かなかった。
 やがて彼は、口を開いた。

 「水牛。今までありがとう。そろそろ、次の旅に出かけることにするよ」

 ガーシュは人間の言葉を話していた。水牛は、ふと冷静になった。

 「そうか。これは夢なんだ」

 水牛の独り言に、ガーシュはちょっと笑ったように見えた。猫が笑うなんて、やっぱり夢
だな、と水牛は思った。だが、何故かガーシュの名誉を傷つけるような気がしたので、その
感想は口に乗せなかった。
 自分の夢であるなら、自分で事態をコントロールできるに違いない。例えば、ガーシュの
そばに近づいて、彼を撫でるとか、抱き上げる、とか。だが、相変わらず夢はガーシュのテ
ンポで続いていくようだ。

 「それで、今までお世話になったお礼に、何かプレゼントしたいんだけど」

 「猫のクセに、義理堅いね、ガーシュ」

 「猫は義理堅いんだよ。犬よりも。それで、何が欲しい?」

 水牛はしばらく考えた。

 「じゃ、グッチのバッグ」

 「そんなの欲しいと思ってないクセに。未来が読める力なんて、どう?」

 ガーシュの提案に、水牛は首を振った。

 「未来が読めたって、仕方ないじゃない?自分でそれを変える力がなければ」

 「…欲張りだな、水牛は。じゃぁ、過去を変える力っていうのは、どう?」

 「過去が変わったら、君との出会いもなくなっちゃうかもでしょ?ダメダメ」

 水牛の言葉に、ガーシュは照れたようだ。盛んに顔を洗う。

 「ねぇ。本当に欲しいものはなんなんのさ?水牛」

 照れ隠しの毛繕いの手を止めて、彼はそう、言った。その時のガーシュの顔があまりにも
真剣だったので、水牛も本音で答えた。

 「ガーシュ。どんな姿になっていても、きっと見つけるから。戻ってきて欲しい」

 ガーシュは哀しそうに、首を振った。

 「それを約束できたら、どんなに良いだろう」

 「ガーシュ、それ以外のプレゼントなんて、いらないよ」



 そこで、水牛は目が覚めた。



 夜はすっかり明けていて、寒々しい冬の日差しが部屋一杯に入り込んでくる。昨日まであ
んなに明るく感じた窓辺も、どこか薄暗い。それに第一、部屋がとても寒かった。
 このアパートは古いくせに、セントラルヒーティングになっている。どの部屋も、快適な
温度が保たれているはずだ。
 それなのに、水牛は寒くて仕方なかった。










 ガーシュの姿が消えてしまってから、どれくらいの月日が流れただろうか。
 相変わらず、水牛はル・コルビュジェの家具に囲まれて、黒い部屋に暮らしている。タ
ロット占いで生計を立てているのも、変わらなかった。
 変わったのは、ガーシュがいないことだけだ。











 毎日毎日、水牛はガーシュの気配を感じないかとアンテナの感度を最大にしていた。だ
が、水牛の願いも虚しく、一向に気配は感じられなかった。
 ふと気が付けば、また、2月が巡ってきていた。バレンタインデー前の喧噪も一段落
し、水牛は冬枯れの公園を眺めながら、紫煙を吐いていた。
 そして、コーヒーを淹れるためにキッチンへ向かう。

 と、その足首に何かが触れた。
 見れば小さな仔猫が、大きな目を一杯に見開いて、喉を盛大に鳴らしている。
 大きな丸い目に、頑固そうな口元。

 「ガーシュ…、お腹空いたの?仕方ないなぁ」

 水牛はそういいながら、仔猫を抱き上げた。
 仔猫は尻尾の先まで振るわせながら、喉を鳴らしている。水牛は、小さな仔猫にささみは
ダメだろうと思った。だが、潤んだ大きな瞳に見つめられてしまったら、どんな鉄の意志を
持っていたとしても骨抜きにされてしまうに違いない。

 「もう、どこかへ消えちゃダメだからね」

 彼女はそういうと、ささみを湯がき始めた。










 「タロット占い・水牛」は、今日も「人生前向きに」生きようとしている人たちのため
に、営業している。
 そして水牛の膝で丸くなる、グレーの猫を見ることが出来たら、きっとその人の未来に幸
福をもたらしてくれるだろう。
 人間にその気さえあれば、猫はいつだって、福を呼んでくれる存在なのだ。 
fin