+猫アパートの住人+


402号室


 お香はその香りを楽しむためだけに、存在するわけではない。元来、香というのは呪術や妖術、あ
るいはまじないといわれたものに付いて回る存在だった。
 もっとも、今でも香を呪術に使っているところはある。だがそれは、人知を越えたような奥地の呪
い師ぐらいであると、一般的には思われていることだろう。










 シノワズリーで統一された「猫アパート」の402号室に、チキタはイシガメのウミと、日本猫の
桃と共に暮らしている。
 チキタはフランスでも認められた、調香師である。「鼻」の称号を持つ調香師は、この国ではほん
のわずかの筈だ。
 その肩書きが利いて、彼女は売れっ子といっても良い調香師として、業界では名前が知られた存在
だ。

 チキタの部屋には、常に香が焚かれている。彼女が処方し、調香した香は常人の鼻にはなんの香り
も残さないはずだ。
 チキタの特別な鼻には、この香が必要だった。この香りが漂っていなければ、余計なにおいを察知
してしまうからである。




 彼女はいわゆる「嗅覚過敏」と言われる鼻を持っている。だが、これは病気でそうなっているわけ
ではなく、彼女の一族が代々受け継いできた特殊な能力の一つだ。
 彼女の一族は表向きは「お香預かり所」として宮中に仕えてきた。だが、その実は呪術を行ってき
たと伝えられている。それ故に、様々な特殊能力を持った者が、一族から出ているという。
 それも大昔の話で、今の彼女には与り知らないことだ。それでも「お香預かり所」の肩書きは、一
族が彼女を残して死に絶えた今、彼女が背負って行かねばならない。




 ウミに餌やりをしながら、チキタはぼんやりとそんなことを考えていた。桃が熱心に、窓外の鳥を
眺めている。時折、鼻を鳴らしながら前足をあげたりする様は、一人前にハンターを気取っているよ
うでなんだかおかしかった。
 窓ガラスに阻まれていることに憤慨したのか、桃は団子尻尾をぴくぴくさせながらチキタをじろり
と睨め付けた。

 「ダメダメ。そんな目をしたって、今日は外には行かないからね」

 チキタは思わず笑いをこぼしながら、桃に告げた。へそを曲げたのか、それとも気紛れを起こした
のか。桃はチキタに背を向けると、黒檀のベンチに飛び乗る。その上に置かれたタイシルクのクッ
ションは桃のお気に入りの一つだ。
 チキタの指から舞い落ちる食事を、ウミは懸命に首を伸ばしながらついばんでいる。

 「ウミ、最近ちょっと、意地汚いよ」

 ウミはチキタの批判など耳に入らぬ様子だ。
 そんな、午後の平和なひとときをドアのベルが打ち破った。チキタは溜息をつきながら、ウミの水
槽から離れると玄関ドアを押し開けた。

 「こんにちは、お香の先生。これ、土産」

 玄関に立っていたのは、がっちりとした体つきの、大柄な男だった。よれよれのトレンチコート
に、くたびれた靴。だが、髪だけはきっちりとオールバックにしているから不思議である。

 「刑事さん。また、ですか」

 男は殺人課の刑事だった。名前はたしか、サカキとか、サカキバラとか言った。以前、とある殺人
事件で女性がつけていた香水の残り香について専門家の意見を聞きたい、と訪れたのがきっかけで、
知り合ったのだ。それ以来、何かある度にチキタの元に来るようになった。

 「まぁまぁ、固いこと言わずに。一緒にケーキでも食べましょうや」

 「なんで、私があなたとケーキなんか…」
 
 「まぁまぁ」

 刑事特有の図々しさなのか、それともこの男がそうなのか。彼はチキタに断りもなく、ずかずかと
部屋に入ってきた。

 「相変わらず、煙い部屋ですね」

 「文句あるなら、さっさと帰ってくださいよ」

 「そうは行かないんですよ、先生」

 男は見事な螺鈿が施してある丸テーブルに、手土産のケーキをそっと置いた。変なところで神経質
なようだ。
 仕方なく、チキタはお湯を沸かすと日本茶を入れた。チキタの部屋にあるお茶といえば、日本茶と
烏龍茶だけだったが、ケーキにはわざと合いそうもない、緑茶を入れた。さっさとこの図々しい男
に、帰って貰いたかったのだ。
 何しろこの男は、チキタにとってトラブルメーカーで、面倒くさいことを必ず持ち込むからであ
る。




 「言っておきますけど。今日は疲れているから、やりませんよ」

 「いやですね、先生。私がまた、事件を持ち込んだと思っているんですか」
 
 「他にどんな用事があるって言うんですか。イヤなものは、イヤです」

 緑茶をすすりながら、チキタはケーキをつついた。

 「そんなこと言わないで下さいよ」

 「大体、私が協力したところで、アレは証拠として認められないでしょうが」

 「参考になるんですよ。犯人が分かれば、証拠は後から付いてくる」

 男はそういうと、おもむろに懐から小さなビニール袋を取り出した。見れば、模造宝石の付いた安
物のピアスが片方だけ、入っている。

 「先生ほどの眼力があれば分かると思いますが、まあ、安物のピアスですよ。どうってことない、
  露天で買えそうな。でもこれの持ち主はですね…」

 チキタは、手を挙げて相手の言葉を遮った。

 「殺されたの?それとも誘拐かしら」

 男はニヤリ、と笑った。

 「さすが、先生。今回の事件には、是非とも先生の眼力をお借りしたいんです」

 「最近、警察はさぼり過ぎじゃないの」

 チキタはそういいつつも、ピアスの入った袋を受け取った。男が手渡した手袋を無言ではめると、
その小さな物体を掌に乗せる。
 鼻を近付けてみると、微かに化粧品の匂いとシャンプーの匂いがする。それに混じって、血の匂い
も嗅ぎ取った。

 「被害者の女性は、なんで死んだの」

 「刺殺ですよ。通り魔か、あるいは男友達の一人に殺されたのか。今のところ、捜査はその二方向
  で進めています」

 「そう。でも、変な感じ」

 チキタは眉をひそめながら、もう一度鼻をピアスに近付けた。
 
 「何が、変なんですか」

 「このピアスの持ち主よ。ピアスはあなたの言った通り、安物でしょ。でも使っている化粧品はブ
  ランド物だわ。シャンプーも、相当値段の張る物を使っている筈よ。化粧品にお金をかけるよう
  な女性が、こんな安っぽいアクセサリーを着けるなんて」

 チキタはそういいながら、ピアスを男に返した。

 「これ、きっと彼女の趣味じゃないわね。それにつけていたとしても、きっと長い時間じゃない」

 「成る程。で。やっていただけますか」

 「だから、言ったでしょ。身につけていた時間が短いって。アレが成功するか、分からないってこ
  とよ」

 「やってみるだけでも、お願いしますよ」

 男はそういうと、チキタにピアスを押しつけた。チキタは立ち上がると、景徳鎮の香炉の蓋を開
け、小さな鉛の杓のような物を煙を上げる香に被せた。
 景徳鎮の香炉を片づけると、飾り戸棚の中から古びた青銅の香炉を出した。

 「言っておきますけど。失敗しても文句言わないで下さいよ」

 男に念を押す。男は、じれったそうに首を縦に振った。

 チキタは小さな桐箱を取り出すと、なかから三角錐の形をした香をピンセットで取り出した。それ
を青銅の香炉に置くと、ゆっくりと火をつける。
 やがて部屋中に、なんとも言えない不思議な香りが漂い始めた。
 チキタはピアスを掌に乗せ、心の中を空白にする。
 視界が奇妙に歪みだし、更には水に溶けたように何もかもが流れていく。チキタはそっと目を閉じ
た。










 「ありがとう。大事にするわ」

 女はそういうと、いそいそとピアスを耳つけた。贅沢に慣れた女の肌には、そのピアスは違和感が
あったが、彼女は黙って笑顔を作った。
 

 「どう。似合うかしら」

 女の問に、男は頷いた。

 「なぁ。昨日の夜、電話したのになんで出てくれなかったんだよ」

 「ごめんなさい。携帯、マナーモードにしていて気が付かなかったの」

 男は疑り深い目で、女の目を覗き込んだ。女は目を逸らす口実に、時計に目を落とした。金のか
かった服装によく似合う、いかにも高級な時計だ。
 男は自分の腕に巻いた、安っぽい時計に目をやる。時間は八時を少し過ぎたところだった。

 「あら。この時計、進んでいるわ」

 「へぇ。珍しいな。時間ばっかり気にしているお前にしては」

 「皮肉を言わないで」

 二人の間に、沈黙が流れた。男が口を開きかけたとき、女が言った。

 「そろそろ、行かなくちゃ」

 女は男に背を向けた。何かが、男の狂気に火をつけた。いや、最初からそのつもりだった。でなけ
れば、新品のナイフをポケットに忍ばせているはずがない。

 女が倒れたとき、男は高揚した気持ちを抑えることが出来なかった。体に付いた返り血すら、愛お
しくて堪らなかった。
 思い出に、と男は女が最初につけていた高価なダイヤのピアスを、ポケットに収めた。
 そして、女の体に入り込んだままのナイフを引き抜く。更に返り血を浴びるかと思ったが、既に絶
命した女の体からは、思ったより血が出なかった。
 男は血塗られた両手を、女のブランド物のスーツで拭うと、高揚した気持ちを抱えたままその場を
離れた。
 女の腕時計は、時を刻み続けている。










 
 チキタは目を開けると、香を消した。振り返ってみると、男は相変わらず期待に満ちた目でチキタ
を見ている。

 「どうでした、先生」

 「参考になるか分かりませんけど、犯人は男で、おそらく被害女性の愛人か何かでしょうね。つい
  でに言うと、この男はサイコパスみたいですね。被害女性の携帯に、男からの着信履歴があるん
  じゃないかしら」

 「じゃ、連続殺人犯っていう可能性は、ないですか」

 男の言葉に、チキタは眉をひそめた。

 「どういう意味、それ」

 男は、懐からさらにビニール袋を取り出した。見れば、チキタが今、握っているピアスと同じ物が
入っている。しかも、それがいくつもあるのだ。

 「先生のうちにはテレビがないし、新聞も取っていらっしゃらないようだからご存じないかも知れ
  ませんが…。最近、同じような殺しが何件もありましてね。今のところ同一犯の犯行だと思われ
  ているのは、4件です。どの現場にも、このピアスがあります」

 チキタは、他のピアスにも鼻を近付けてみた。

 「最初に貰ったピアスは、最初の現場に落ちていたんでしょ」

 「その通り」

 「連続殺人犯って、最初の殺人では自分にリスクのある相手を被害者に選ぶ傾向があるって、聞い
  たことあるわ」

 チキタはそういうと、再びピアスに意識を集中した。ピアスに残された匂いを、文字通り嗅ぎ取
る。やがて、彼女は言葉を続けた。

 「他のピアスには、女性の匂いがしない。犯人は何かの儀式のつもりで、ピアスを置いていったん
  だわ。犯人にしか、分からない儀式」

 「そうかも知れません。じゃ、犯人に理由を聞かねばなりませんな。どんな男でしたか」

 チキタは詳細に、犯人の容姿を語った。
 男は、几帳面にメモを取りながら、チキタの話に耳を傾けていた。

 「ご協力、感謝しますよ」

 「もう、これっきりにして貰いたいわ。それに感謝するなら、言葉だけじゃ誠意が足りないってモ
  ンじゃないの」

 男は笑って肩を竦めると、来たときと同じくさっさと出ていった。

 


 図々しい刑事が押し掛けて来た日から、一週間が過ぎた。チキタの部屋に、一通の手紙が来た。
 几帳面な字面と、皺が寄った封筒を見た途端、差出人を見るまでもなく、あの刑事が出した物だと
知れた。

 タイプされた文面は簡潔だった。曰く、犯人逮捕へご協力感謝します、とそれだけである。

 「金一封ぐらい、包んで来いっての」

 チキタはその手紙を丸めて、ゴミ箱へ放り投げた。だが、あいにく狙いは外れて、手紙は桃の好奇
心を惹くに至ってしまった。
 桃が一人でサッカーを楽しんでいるのを脇目に、チキタはウミの甲羅を撫でた。ひんやりとした感
触が、なかなか心地よい。
 と、チキタの目が桃の足元に釘付けになった。
 丸まった手紙から、何か金属製の物がはみ出していたのである。桃が誤飲しては大変だと、チキタ
は慌てて桃から手紙を取り上げた。
 金属製のそれは、小さなイヤリングだった。
 もう一度、改めて手紙を見てみると、便せんが二枚入っていた。その一枚に、手書きの文字で
 
 「今度、食事でもしましょう」

 と書かれており、イヤリングが感謝のしるしであると添えられていた。

 「ふーん。刑事って案外儲かるのかな」

 見るからに高そうなイヤリングを眺めながら、チキタは微笑んだ。
fin