猫アパート403号室
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気持ちのよい、朝だった。
11月にしては暖かで、まさに小春日和というにふさわしい陽気である。 風千はキッチンでコーヒーを淹れながら、ぼんやりと物思いに耽っていた。 彼女と夫の住むこのアパートは、通称「猫アパート」と呼ばれている。その理由は、オーナー夫妻が大の 猫好きであり、猫を飼っていれば格安で部屋を借りられるためだ。今時、ペットと同居できる貸部屋は珍し くないが、この価格でしかもアンティーク家具付きの部屋まで借りられるアパートはここ以外にないだろ う。 もっとも、風千夫妻が借りている部屋は、家具付きではなかったが。 天井まで届く大きな窓から、さんさんと秋の日差しが室内いっぱいに差し込んでいる。目の前が公園なの で、日当たりは抜群だ。この部屋は建物の四階にあるため、特に日当たりがよい。 牛柄の大きな猫が、熱心に窓の外を眺めている。公園の木々に戯れる小鳥を眺めているのだろう。 彼は風千夫妻の「ベビー」だった。名前を畝傍という。色々あって、歯が殆どないのだが、その所為で時 折舌を覗かせている。その様子がまた愛らしく、風千は目尻を下げてしまうのだ。 しかし、今朝の風千の思考は畝傍の愛らしさへの讃歌ではなかった。 あまりにもぼんやりしすぎていたために、熱湯の入ったやかんを素手で掴んでしまうほどである。 慌てて手を冷水に浸すも、まだ思考はあらぬ方向へ向いていた。 風千のその思いを察したのか、夫が新聞越しに声をかけてきた。 「おい。大丈夫か」 「ええ、まあ」 風千はコーヒーをカップに注ぐと、夫のそばに置いた。自身はカップを手に、窓辺に立つ。オットマン付 きの安楽椅子に、畝傍が寝ころんでいるため風千は立ったままだ。一番気持ちのよい場所に置いた安楽椅子 であるが、おかげで畝傍はここから動かない。 喉を鳴らす畝傍の背をそっと撫でると、風千は眼下に広がる秋の景色を眺めた。 おもむろに彼女は夫を振り返った。 「ねぇ。この間の日曜日に引っ越ししてきた人なんだけど」 「うん」 夫は気のない返事である。どうせ新聞の「新製品紹介」とやらを熱心に読んでいるのだろう。風千にはな んのことやらさっぱり分からない、新しい機械を紹介してあるコラムである。CPUがどうのだの、走査線が どうしただの、風千にとってはどうでもいい言葉の羅列欄だ。 そんなことより、人生にはもっと興味を持つべき対象がある。例えば、先日引っ越ししてきたこのアパー トの新しい住人のことだ。 独身の男らしく、白いペルシャを飼っている。 このアパートは案外人の出入りが激しい。住人の名前を覚えた頃、また新たに増えるか、減るかを繰り返 している。 「あの人は、どういう素性の人なのかしら」 「さぁ」 夫との会話は、これで打ち切りである。人と話すより、機械をいじくっていた方がこの人は幸せに違いな い。風千はそう確信すると、コーヒーを口に運んだ。 新住人をそれとなく見張っているのは、風千だけではない。畝傍も興味あるらしく、男が窓下の道路に姿 を見せると、熱心に見つめていた。 昨日は、どうにも好奇心が抑えられなくなり、男が近所のスーパーに入ったあとをつけて、わざとらしく 声をかけた。 男は驚いた様子だったが、しばらく風千と猫談義を交わしてくれた。 男は特売品の猫缶を買い込んでいた。見るからに、自分の方が腹を空かしている様子であるのに、猫の食 事だけ買う男に風千はまた、疑惑の目を向けた。 身につけているものは、どれ一つとっても安物はない。時計にしても、靴にしても、完璧に「高価で高 級」なブランド品だった。それにも関わらず、猫には安物の猫缶だ。 本当にペルシャを飼っているのだろうか。 よしんば飼っていたとしても、愛情は注がれていないに違いない。 冷たくあしらわれているペルシャを思って、風千は溜息をついた。 彼女はもう一度夫を見た。 ひょろりとした体型と、ちょっと神経質に見える手先を持つ男。すいもからいもかみ分けてしまった、相 手である。女房との会話よりも機械や自動車に情熱を注ぐ夫。 風千はまた、溜息をついた。 カップをキッチンに戻すと、風千は畝傍を抱き上げた。 「ちょっと散歩に行ってきます」 「おー。いってらっしゃい」 向かいの公園で猫を散歩させるのは、「猫アパート」住人のいわば慣習だった。今日は誰が来るだろうか と、風千は考えながらドアを閉めた。 エレベーターホールで、エレベーターを待つ間、風千は物思いに耽った。 ほんの時たま、オーナー夫人が「陛下」と呼ばれるセミロングヘアーの黒猫を、散歩させているのに出会 うことがある。このオーナー夫人もおかしな人で、滅多なことでは外出しないらしい。買い物などは、どう しているのだろうかと疑問に思うこともしばしばだ。何しろ、一番近くにあるスーパーにさえ、出掛けると ころを見たことがなかったのである。 五階に住んでいる、オペラ歌手の女性は猫を飼っていないが、自身が散歩へよく出掛けているようだっ た。時々、小さな子供がエレベーターに乗って五階に行くのをみると、彼女は子供相手に音楽教室を開いて いるようである。小柄で、おっとりした雰囲気のお嬢様で、子供達にも人気があるようだ。 二階には沢山の猫を飼っている夫婦が住んでいる。アメリカンショートヘアーと小さな黒猫が彼らの子供 達だ。 黒猫はまだ仔猫で、好奇心旺盛らしい。人懐こくて、風千にも愛嬌を振りまいていた。 そんなことをつらつら考えているうちに、エレベーターが到着した。 畝傍を抱き直して、乗り込む。 二階に到着したとき、不意にエレベーターが止まり、独りの男が乗り込んできた。 あの、男だった。 風千は好奇心を相手に悟られないように、とりあえず微笑むことにした。 「こんにちは。お出かけですか」 つとめてさりげなく、風千は声をかけた。男は、戸惑いの表情を笑顔で誤魔化している。 「ええ。まぁ。マリリンの食事を買いに」 マリリンというのが、男の飼っているペルシャの名前である。 風千は疑惑の目を男に向けた。 「あら。昨日スーパーで買ってませんでしたか」 男は明らかに動揺して、しどろもどろに答えた。 「え、あ、ああ…その。いや、私の食事を買いに」 本当にそうなのかも知れないが、それならなにも慌てることはあるまいに。風千の疑惑を感じ取ったの か、男は目を逸らす。 「そ、そういう奥さんは」 風千は相手に疑われないように、もう一度にっこりと微笑んで見せた。それはアカデミー賞ものの笑顔 だった。 「畝傍をね、公園で遊ばせようと思って」 「今日は天気も良いですからね」 「ええ」 アパートの入り口で二人は別れた。というより、風千は別れる振りをしたのだが。男は本当にスーパーの 方へ向かって歩き出した。風千はしばらく男の背中を見送っていたが、畝傍に急かされて公園に足を向け た。 その時である。 一台の黒塗りのリムジンが、ゆっくりと目の前を通過した。思わず見とれていると、そのリムジンは男の 隣に横付けになったのである。 男はリムジンの後部座席に人目を忍ぶように、乗り込んだ。 風千は目の前で起こった出来事に、しばし呆然としていたが、慌ててアパートに駆け込んだ。畝傍が腕の 中で抗議の声を上げているが、お構いなしにエレベーターに乗り込む。 自分の部屋に飛び込んで、やっと彼女は息を吐いた。 「早かったね」 呑気に夫がそう言う。風千は畝傍を腕からおろすと、夫の目の前に座った。 「あの人、やっぱり普通の人じゃないわよ」 夫は新聞から「週刊アスキー」に乗り換えていた。雑誌に目を落としたまま、風千に気のない返事をす る。 「あの人、きっと裏の商売をやってるんだわ。マフィアの車に乗り込んだのよ。私、見たんだから」 「あの人って」 のんびり聞き返す夫に、風千は苛立ちを込めて答えた。 「あの、新しく引っ越ししてきた男よ」 「ふーん。まぁ、いろんな人がいて面白いじゃないか」 呑気すぎる答だ。 風千はご機嫌斜めになった畝傍を抱き上げると、安楽椅子に身を沈めた。忙しく頭を働かせて、男への疑 惑を筋道立ったものに仕上げる。 男は確かになにか後ろ暗い事を商売にしているに違いない。 男の服装や、人目を忍ぼうとする態度、以前はかなり裕福な生活をしていたらしい様子。 それらを総合すると、落ちぶれた貴族を思い描かずにはいられない。しかし、男はそれだけではなく、マ フィアと関わり合いがあるのだ。 あのリムジンが債務者のものだったら、男はもっと驚いただろうし、慌てただろう。しかし、驚くどころ か、男はなんの疑いも持たずにリムジンに乗り込んだ。 ということは、このアパートに越してきたのは、何か目的があってのことだろう。ちょっとおっとり気味 のオーナー夫人を誤魔化すために、猫を飼っているのだ。そうでなければ、高貴なペルシャ猫に、あんな安 物の缶詰を食べさせようなどと思わないはずである。 大体、あの男と純白のペルシャ猫と言う組み合わせが、風千には理解できなかったのだ。 「間違いないわ。あの男はこのアパートの誰かを殺すために、引っ越してきたのよ」 小さな声でそう呟いたが、夫の耳には入ってしまったらしい。その証拠に、あきれ顔で風千を見つめてい る。 「君は想像力が逞しいなぁ」 「だって。私、見たのよ。あの男が黒塗りの車に乗り込むところを」 「黒塗りの車だって、マフィアが乗っているとは限らないだろう」 「リムジンだったのよ、リムジン」 夫は肩を竦めると、自室に引き上げていった。これから、自分で組み立てたコンピューターの性能を、さ らにアップさせるべく、改造するのだろう。先日、通販で新しい基盤を買い込んでいたから、間違いない。 あの男が殺し屋だとすると、辻褄が合うことが沢山あった。 例えば、男がアパートの住人と殆ど関わりを持っていないこと。 誰かと親密になれば、いつか事が露見してしまう可能性がある。それを避けるために人と関わらないのだ ろう。 その他にも、少なすぎる引っ越しの荷物、独り暮らしの筈なのに、時折買い込まれる大量の食品、これら がバックになにか付いていることを示唆しているように思えてならなかった。 風千が男に疑惑の目をむけ始めて、幾日か経った。 夫は相変わらず、風千の言葉を馬鹿にしている。 そんなある朝のことである。 畝傍が急に騒ぎだし、玄関のドアで爪研ぎを始めた。これは外に出たいというアピールである。畝傍が散 歩に出掛ける時間ではないのだが、あまりにも騒ぐため、仕方なく風千は畝傍を抱きかかえると、玄関を出 た。 11月の朝は寒い。その上、冷たい霧が辺りに立ちこめていて、なんとも陰鬱な雰囲気だった。 風千はぶるっと体を猫のように震えさせると、畝傍の頭にキスをした。 「頼むから、今日の散歩は短時間にしてちょうだいね」 畝傍は何かに導かれるように、首を伸ばして風千に行き先を指図する。彼の指図に従って、風千はアパー トの裏手へと歩いていった。 裏手には地下室への階段がある。前に一度、降りたことがあるが、薄暗いボイラー室があるばかりだっ た。 そのボイラー室から、真っ白いペルシャ猫が飛び出してきた。風千は思わず、声を上げそうになったが、 ぐっとこらえる。あの猫は、例の男が飼っている猫に違いない。 ペルシャはこちらを一瞬見つめたが、すぐに踵を返すと朝靄に紛れてしまった。 次の瞬間、なにかがくしゃみするような音がし、続いて重いものが落ちるような音がボイラー室から響い てきた。 風千は辺りを慌てて見回すと、隣の建物の非常口の隙間に身を潜めた。 これから起こることを、そこから眺めようと思ったのである。 5分ほど、そうしていただろうか。 独りの男が、ボイラー室から姿を現した。 いわずと知れた、あの男である。男は悠々と歩み去った。 いったい、何が起こったのだろう。風千の好奇心は爆発寸前だったのだが、いいようもない恐怖心が好奇 心を押さえつけていた。 ここから動いてはいけないと、本能が知らせている。 男が去ってから3分も経たないうちに、3人の男が現れた。男達は迷いもなくボイラー室へ降りていく。 しばらくすると、なにかかさばる大きなもの…丁度、人間一人分ぐらいの大きさだろうか…を抱えて表に出 てきた。 男達は慎重に辺りを見回していたが、風千には気が付かない様子である。 やがて、男達は荷物と共に、朝靄へ紛れてしまった。 しばらく、風千は動けなかった。 腕の中で畝傍がもぞもぞ動き、それでやっと、彼女は生気を取り戻した。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、 彼女はボイラー室へ向かった。恐怖心が好奇心に負けてしまったのである。 ボイラー室は記憶通り、薄暗かった。噴き出す蒸気が、頬に熱い。人の気配は皆無だし、まるで何事もな かったようだった。 畝傍が身軽に風千の腕から逃れると、さかんに床の匂いを嗅いでいる。背中を丸め、尻尾はいつもの二倍 にはなっているだろう。風千も、畝傍に負けずに床を熱心に見つめた。 そしてそこに、何かの染みを見つけてしまった。それはあまりにも小さな染みで、ともすれば見過ごして しまいそうなものだった。 しかし、それはどんなに小さな染みでも、それが与える衝撃にはいささかのかげりもない種類の染みだっ た。 それは、血痕だったのである。 風千は口の中がカラカラに乾くのを感じた。手足が小刻みに震えてくる。 男達が持ち去った大きな荷物、あれは間違いなく、死体だ。 彼女はそう考えると、いささか乱暴に畝傍を抱きかかえて、急いでボイラー室から飛び出した。 自分の部屋に逃げ帰った風千は、畝傍を抱きしめながら安楽椅子に腰をかけた。 心臓が早鐘のようになっている。なんとか落ち着こうと、何度も深呼吸したが、虚しい努力だった。 その日の夜。 風千の夫は夕食を頬張りながら、彼女の好奇心にちょっとした皮肉を言った。 「で。結局君のいう殺し屋氏の正体は掴んだのかね」 風千は思わず箸を取り落としそうになったが、かろうじてこらえるとにっこりと微笑んだ。 「やぁね。ただの想像に皮肉いわないでよ」 その笑顔はまさにオスカー像を手にするに値する、素晴らしいものだった。 終わり |