+猫アパートの住人+
501号室
 薄い冬の日差しが、部屋の奥まで差し込んできて、みょうは眩しさに目を開けた。
 みょうが寝ているロフトにも、日差しは容赦なく入り込んでくる。昨日寝たのは何時だっ
ただろうかと、彼女は朦朧とする頭で考えてみた。
 
 「昨日じゃないじゃん。今朝じゃん」

 独りでそう、呟いた。

 みょうが住んでいるのは、通称「猫アパート」と呼ばれる、変わったアパートの一室であ
る。アパートといっても六階建てプラスアルファという、大きな建物だ。通りを挟んだ向か
い側には、大きな公園もあるし、隣は高級食材を扱ったいわゆるブランドスーパーだ。
 みょうの部屋は五階にあるのだが、五階の部屋は六階とどれも繋がっていて、タウンハウ
スのようになっている。もっとも、彼女の部屋は「二階」部分がなくて、ロフトがあるだけ
だが。
 お陰で天井がとても高くて、開放的な雰囲気だ。ただでさえ大きな窓が、二階分繋がって
いるので日当たりは抜群である。
 
 みょうは大きな欠伸をすると、ロフトの梯子状の階段を下りていった。まだ醒めない頭を
軽く振りながら、ふと、電話に目を向けた。寝ている最中に電話があったらしく、メッセー
ジボタンが点滅している。
 みょうはボタンを押した。

 「おはようございます、先生。明日は締切ですよっ!大丈夫ですか?今日、伺います」

 みょうは窓際に据え付けられた、仕事机に目を向けた。
 彼女の職業は漫画家だった。最近は仕事に恵まれており、お陰で部屋に床暖房をつけるこ
とが出来た。このアパート唯一の難点が、床暖房がなかったことだった。それにしても賃貸
アパートでこんな大胆な工事をさせてくれるのは、きっとここぐらいに違いない。

 彼女は玄関に向かうと、新聞を取るために扉を開けた。新聞受けがないのも、このアパー
トの難点といえば、そうかも知れない。
 新しいインクの匂いに、鼻を刺激されて、みょうはくしゃみをした。
 その拍子に、新聞から何かが落ちた。
 
 それは真っ白い羽根だった。

 羽根自体が起こしている微風に乗せて、それはゆっくりと床に舞い降りた。みょうは何気
なく、羽根を拾い上げた。

 「そういえば、昨日はアパートの前で羽根を拾ったっけ」

 



 一週間前。

 みょうは足りなくなった画材を買うために、駅前まで足を伸ばしていた。駅まで歩いて十
五分ほどだが、最近は原稿にかかりっきりで殆ど出歩いていない。アシスタントを雇えばい
いのだろうが、今のところ誰にも自分の部屋に寝泊まりして貰いたくなかったのだ。
 駅からの帰り、みょうは公園を歩いてみようと思い立った。公園をつっきれば、アパート
まで近くなるに相違ない。
 公園に足を踏み入れると、日溜まりに猫たちがたむろしているのが目に留まった。
 
 「猫、かぁ」

 みょうは溜息をもらした。
 その時である。
 何かがみょうの首筋に、そっと触れた気がした。みょうは首に手をやると、そこに真っ白
い羽根を見つけた。

 「どこから降ってきたんだろう」

 空を見上げてみたが、そこには鳥の影すら見あたらなかった。
 
 その翌日も、みょうは羽根を拾った。また、次の日も。
 毎日出かけるところに、羽根が付いて回っているようだった。

 羽根につきまとわれて三日たった日。
 実家の母親から、電話があった。

 「どうなの。元気にしているの?」

 「うん。元気だよ。先週、床暖房の工事も終わったし、遊びにおいでよ」
 
 「忙しいんでしょう?昨日も編集の人…だったかしら?電話に出てたし」

 「じゃ、二度も電話してくれてたんだ。ごめんね」

 母との何気ない会話に、みょうはなんだか寂しさを感じた。昨日まで、一人でいることを
求めていたのに、今日は誰かと繋がっていたかった。

 「ねぇ。猫でも、飼ったら」
 
 母親のためらいがちの提案に、みょうは怒りを露わにした。
 
 「お母さん。私にとって猫はあの子だけで良いの。他の子はいらないの」

 「でも…もう、十年も前の事よ。床暖房入れたのだって、本当は…」

 みょうは母親に、それ以上言わせずに電話を切った。
 そうなのだ。みょうにとって、猫は十数年前に行方不明になった、あの縞猫だけなのだ。
 茶トラの縞猫。白い手足に、真っ白い胸の毛。長い尾は体長を優に超していて、いつもS
字にくねらせていた。いくつになっても甘えん坊で、呼べば必ず返事をする。

 可愛い、そして愛くるしい、あの縞猫。

 みょうはいつも思い出すたびに、胸が締め付けられる気がした。
 
 ところが、今日はそうではなかった。寂しい、という気持ちは変わらなかったが、会いた
い、という気持ちの方が勝ったのである。
 
 「そうかぁ。もう、十年以上前になるんだ」

 みょうは仕事机に向かって、ペンを取り上げた。

 白い羽根は、その後もみょうについて回った。しかも不思議なことに、徐々にみょうのア
パートに近づいてきているようだった。
 六日目には、とうとうアパートの前でみょうは羽根を拾った。

 そして、今日。
 部屋の前にその羽根は現れた。

 みょうはしばらく、その白い羽根を見つめた。なんだか胸がざわざわするような、なんと
も落ち着かない気持ちになる。
 慌てて部屋に戻ると、彼女は外に出かける準備をした。
 なぜだか分からないが、出かけなくてはいけないような、そんな気になったのである。
 コートを着て外に出ると、冷たい風が頬を打った。身震いを一つすると、彼女は道路を
渡って公園に足を踏み入れる。
 不思議なことに、公園の日溜まりには猫たちの姿がなかった。だが、どこからか小さな鳴
き声が聞こえてきた。
 しかし、その鳴き声は猫と言うには奇妙すぎて、その上はっきりとしない小さな声だ。
 それでもみょうは、声を頼りに歩き始めた。
 
 その小さな猫は、大きな銀杏の木の下にうずくまっていた。キジトラの毛衣が、日の光に
きらきらとしていて、大きな正三角形の耳は顔よりも目立つ。潤んだ瞳も大きくて、引き込
まれそうだった。
 そして彼は大きく口を開けて、あの奇妙な声でみょうに訴えかけた。

 「うちに、来る?」

 みょうの問に、彼は頷いたように見えた。

 「お帰り、ゴン」

 そっと、そう呼びかけると彼は喉を盛大に鳴らして、みょうの懐に飛び込んできた。





 「こうして、ゴン王はうちの子になったのよ」

 満足そうに膝の上で眠るゴンを撫でながら、みょうはそういった。

 「その話なら、もう、百回は聞いてますよ。お願いですから原稿、書いてくださいよぉ。
  先生の猫の面倒、見てますからぁ」

 みょうはにんまりしながら、新人の編集員を見返した。

 「あら。そうだったっけ。そうそう。それからゴンはね、お刺身はさばきたてじゃなくっ
  ちゃ食べないの。お願いね」

 「わかりましたよ」
 
 彼はそういいつつ、疲れたようにマッサージチェアーに腰を下ろした。肩こりに悩むみょ
うが、ようやく購入した贅沢品である。
 編集員が腰掛けた瞬間、ゴンが突然みょうの膝から飛び降りると、そのマッサージチェ
アーに駆け上った。

 「ごめんね。その椅子、王様のものなのよ」

 「えーっ!ちょっと、先生。猫に甘すぎですよっ」

 「良いの、良いの。せっかく戻ってきてくれたんだから。今度は大事にしようって決めた
  んだから」

 みょうは満足そうに目を細めると、原稿用紙に向かった。

 冬の日差しが部屋一杯に射し込み、ゴンの毛衣をあの日のように、輝かせていた。
 
fin