+猫アパートの住人+

502号室



 「芸術家たるものは道徳的に共感しない」とは、オスカー・ワイルドの言葉だったか。
 ふと、れいんはそんなことを思い出した。きっと、肖像画の出来が良すぎた所為で、そんな思いに
捕らわれたのだろう。
 れいんは日の燦々と差し込むアトリエで、その肖像画に紅の一筆を与えた。うっすらと満足の溜息
をつき、彼女は三歩後ろに下がった。
 三方をガラスに囲まれた出窓は、肖像画を殊更美しく映えさせるようだった。モデルとなった人物
の魅力を、この画布に閉じこめることに成功しただろうか。

 「出来たのかね」

 突然、声をかけられて、れいんは飛び上がった。振り返ると、そこには画商である元夫、たかの姿
があった。

 「びっくりした」

 「相変わらず不用心だな。鍵ぐらい、かけておけよ」

 たかはそういいながら、目は肖像画に釘付けだった。

 「で、これか。今度サロンに出展する作品は」

 たかの視線が強烈な熱を帯びていることに気がつき、れいんは肖像画の前に体を割り込ませた。
 きっと、いくらで売れるか試算しているに違いない。

 「これは個人的な作品よ。サロンに出展するつもりはないわ。サロンには猫の絵を出すって言って
  おいたじゃない」

 「また、猫の絵か。いつも猫ばかりだな。それで、アレか。まだ公園の野良猫どもに餌をやってい
  るのか?」

 れいんは「猫の画家」として、サロンや数々の展覧会でその名を知られている画家だった。モチー
フには必ず猫を用いており、静物画や人物画などは極端に少ない。
 彼女の才能をいち早く見いだしたのは、サロンの主催者とも交流のあった、たかだった。彼はれい
んの絵をサロンに紹介し、金持ち連中を彼女の味方に付けさせ、パトロンを買って出たのである。
 そして、いつの間にか二人はお互いの思いを誤解するようになっていた。
 すなわち、お互いを尊重しあい、愛し合っていると思いこんでいたのである。
 二人の間にあったのは、純粋にビジネスだけだったと思い知ったのは、それから何年もした後だっ
た。
 気がついたときには、れいんには新しい恋人が出来、またたかも、新しい才能を発掘していた。
 二人が別れたのは、当然の結果だった。それでも、未だにたかはれいんの絵を自分の店で売り、彼
女の展覧会の案内やサロンへの出展を促したりしている。

 「私がどこで何をしていようと、あなたには関係ないわ」

 「それは違うな。うちの店に飾ってある絵の作者が、キャットレディーなどと呼ばれていたら、店
  の品位に関わるよ」

 「キャットレディー?良いあだ名じゃない」

 れいんはそれ以上相手にしないことに決め、肖像画に再び注意を向けた。

 「良いあだ名なもんか。十九世紀末に、夫を砒素で毒殺した女と、同じあだ名だぞ」

 「あら。ますます、気に入ったわ。それで。用がないなら帰ってよ。忙しいんだから」

 れいんはそう言ったきり、肖像画へ精神を集中させた。暗い背景を背に、艶やかな黒髪を持つ美し
い青年が浮き立つように、微笑んでいる。
 れいんの筆が、そっと撫でるように画布に触れるたびに、青年はますます生き生きとしてくるよう
だった。

 「君がその気にさえなれば、こんな幽霊屋敷みたいなアパートからも、おさらばできるんだぞ」

 たかはれいんの背中に、言葉を投げかけた。

 れいんの住んでいるのは、「猫アパート」と呼ばれる古い建物の五階だった。メゾネットタイプに
なっている部屋で、出窓のある二階部分にはアトリエを設えてある。家具も元々部屋にあったもの
だ。優雅なゴブラン織りの寝椅子や、オークに象眼のある飾り棚など、どれをとってもクラシカルな
ものである。
 れいんは沢山の猫と暮らしているのだが、その猫たちが特に気に入っているのは、分厚いオークに
百合の象眼が施してあるヘッドボードの、クィーンサイズベッドだった。れいんもそのベッドが気に
入って、ここの部屋に決めたのだが、今や彼女の寝るところはリビングの寝椅子か、アトリエの簡易
ベッド。寝室は、猫に乗っ取られてしまったのである。

 「私はこのアパートが気に入っているのよ」

 ぴしゃり、と鼻先でドアを閉めるような言い方に、たかは口をつぐんだ。

 「それで、この絵のモデルは君の新しい恋人か」

 「どうかしら。私自身でもあるわね」

 二人の間に、しばらくの沈黙があった。穏やかな昼下がりの日差しが、アトリエの奥深くまで入り
込む。壁に掛けられた時計が、緩やかに時を刻む音だけが、静かに響いた。
 やがてたかが口を開いた。

 「あんまり根をつめるなよ」

 しかし、その小さな呟きは、れいんの耳には届かなかった。

 「締切は十日後だ、忘れるなよ。また、近いうちに来るから」

 たかはそういうと、アトリエを後にした。
 ドアの閉じる音と同時に、れいんは絵筆を置いた。簡素な画架にかけられた、未完成な肖像画を彼
女はしばらく眺める。

 「もう、道は交差しないわよね」

 彼女は肖像画に囁きかけた。
 たかが出ていったと同時に、1人の青年が寝室からアトリエへ入ってきた。
 彼の姿は、まさに肖像画そのものだった。唯一の違いは、その瞳だろうか。

 「ああ。彼は君とは別の道を選んだんだ。僕らの邪魔は出来ないさ」

 肖像画の主はれいんにそう囁くと、肩を抱き寄せた。
 彼の温もりを感じたくて、れいんは彼に寄りかかった。青年というよりも、少年に近い体格であり
ながら、こうして寄りかかっていると不思議な安堵感がある。
 彼はれいんの耳元に、唇を寄せた。
 
 「早く、僕の絵を完成させて」
 
 「ええ。でも、今日はもう疲れたわ。ちょっと、散歩に行ってくる」

 れいんは上着を着ると、画布を振り返った。
 今まで温もりを共有していた相手の姿は、消えている。おそらく、また猫と昼寝をするために寝室
に籠もったのだろう。
 彼女は重苦しい溜息をつくと、部屋を後にした。






 ジョニー、と名乗るその青年がれいんの前に初めて姿を見せたのは、公園でのことだった。
 まだ冬枯れの木々が寒々しい時期で、猫たちは日溜まりで丸くなっていた。れいんはそんな猫たち
を、スケッチブックに写し取っていたのである。
 そのれいんの背後に、ジョニーは不意に現れたのだ。

 「あなたの絵は、孤独だ」

 突然の批判に、れいんは眉をひそめた。

 「初対面で、ずいぶんな言い方ね」

 れいんの言葉に、ジョニーは哀しそうな目で首を振った。
 
 「傷つけるつもりじゃなかった。こういう絵、僕は好きなんだ」
 
 暗い色の髪と、暗い色の瞳。青白いほど、白い肌に哀しい口元。
 美しいが、どこか冷たい、まるで人形かなにかのような彼の面差しに、れいんは警戒心と憧憬とを
同時に感じた。
 
 れいんが公園で絵筆を振るっている間、ジョニーは傍にいるようになった。
 捨てられた仔猫のように、れいんにだけ心を開くジョニーに彼女の心が惹かれていったのも当然の
成り行きだったかも知れない。
 その彼がれいんに、自分の肖像画を描いて欲しいと頼んだのは、公園の木々に新芽が吹き出し始め
た頃だった。
 れいんは二つ返事で快諾すると、彼をモデルに肖像画の制作に入ったのである。
 毎日画布に向かい、彼に向かい、昼も夜もなく、れいんは肖像画を描き続けた。れいんの筆がジョ
ニーの姿を画布に写し取り、ジョニーはれいんの心を徐々に虜にしていった。






 れいんは明るい陽光に、目を細めた。
 散歩するのに最適な大きな公園は、アパートの真向かいにある。いつもはそこをぶらぶら歩くのだ
が、今日は猫たちと会いたくない気がした。
 当てもなく、アパートの前の道を東に向かって彼女は歩いた。
 ふと、目の前に小さな雑貨店を見つけた。ガラスドアに金文字で「PIANETI」と書いてある。店の
大きな窓から中を覗いてみると、壁一面に色々な大きさの額が飾ってあるのが目に留まった。
  
 「あの絵に似合う額があるかしら」

 れいんはドアを押し開けた。

 店の主人らしき女性は、レジカウンターの中でなにやら作業をしているようだ。れいんに気がつか
ない。
 れいんは美しく飾られた店内を、ゆっくりと眺め回した。
 どうやらこの雑貨店は、アンティークの小物を取り扱う店だったらしい。
 壁に飾られている額には、ボタニカルアートや刺繍などがはまっている。金泥の額、銀の額、様々
な時代を生きてきた、様々な絵。
 れいんは壁から店内に視線を移した。
 美しい絵付けのティーセットや、キャンディーポットたち。
 うっとりと眺め回すれいんの目に、一つの画架が飛び込んできた。
 おそらく、素材は松の木か何かだろう。それに銀色のペイントが施してある。全体的に華麗な装飾
が施されていて、キャンバス押さえは天使の彫刻になっていた。
 実用目的ではなく、どう見ても装飾用の画架である。
 れいんはその画架に、ジョニーの絵を飾ったところを想像した。
 
 「きっと、似合うわ」

 れいんはそう呟くと、店の主人に声をかけた。
 女主人は、幸福そうな笑顔の持ち主で、彼女の店の雰囲気とたいへんマッチしている。
 ここの店の商品を買ったら、もしかしたら私も幸せになれるかも、とれいんに思わせるほど、満ち
足りた幸せな雰囲気だ。

 「あの、これは売り物ですか」

 「ええ。そうです」

 女主人の笑顔につられて、れいんも思わず笑みになる。

 「いくらですか」

 れいんが思っていた以上に安価な値段をつげ、女主人はれいんの反応を待っている。
 れいんはもう一度、画架を見た。

 「頂きたいのですが」

 「ありがとうございます」
 
 レジカウンターで、れいんは支払いを済ませた。その時、自分が画家であり、この画架は新しく描
いている絵を飾るのに使うのだと、なんとはなしに女主人に話した。
 女主人は、感心したように頷きながられいんの話に耳を傾けていた。
 話が一段落付いた後、女主人は満面の笑みを浮かべながらお辞儀をした。

 「それでは、お届けしますので…」

 「あ、いえ。持って帰ります」

 女主人はびっくりしたようだ。

 「これ、結構重いですよ。それにかさばりますし…。お届けしますから」

 「いいんです。近くですから」
 
 頑固に言い張るれいんに、女主人は溜息をついた。その溜息までも幸せな気がして、れいんは
少々、腹立たしかった。
 意地になって、重い画架を抱えるとれいんは店を後にした。


 届けて貰えば良かった、と後悔したのは店を出て十メートルも歩かない頃だった。何度も持ち直
し、やっとアパートに辿り着いたときには涙が出る思いだった。

 部屋に戻ると、日はすっかり陰り、肖像画の周りも薄闇に包まれていた。画布の中からジョニーが
こちらを見つめているのが目に入る。

 「只今」

 「お帰り」

 ジョニーはアトリエの簡易ベッドから起きあがった。

 「そこにいたの。良いもの、買ってきたのよ」

 れいんは買ってきたばかりの画架に、ジョニーの肖像画を置いてみた。
 思っていたとおり、しっくりとはまる。

 「イーゼルに僕の絵を飾るのか」

 「素敵でしょう」

 ジョニーはれいんの顔を見つめた。その瞳がいつも以上に暗く輝いていることに気がつき、れいん
は背筋が凍り付くのを感じた。

 「つまり、僕の絵を完成させるつもりはない、ということか」

 そんなつもりはない、とれいんは言おうとして口をつぐんだ。
 そうだ。れいんはジョニーの絵を完成させる気がなかったのだ。もし、絵が完成してしまったら、
彼はれいんの元を去っていくかも知れない。
 れいんは、今までそれを考えないようにしていた。だが、この画架を見つけたとき、彼女の本音を
具象化しているような気がしたのだ。

 「ええ、そうよ。あなたの絵を完成させる気はないわ」
 
 れいんは心の中から絞り出すように言った。
 ジョニーの手がれいんの頬に触れる。そのあまりの冷たさに、れいんは思わず悲鳴を上げた。

 「分かるか、れいん。僕に対する君の仕打ちが、どういう結果を生むのか」

 その冷ややかな瞳を、れいんは見つめ返すことすら出来なかった。

 彼がドアを閉めて出ていった後も、れいんは動くことが出来なかった。涙すら、出なかった。





 何時間、れいんはそうして立ちつくしていただろうか。

 「どうした、明かりもつけないで」

 たかの声が背後からしたとき、れいんは呪縛が溶けるのを感じた。凍り付いた全身が、まるで春の
日に当たったかのように溶けていくのが分かる。
 それと同時に、両目から涙があふれ出した。

 「おい。大丈夫か」

 たかはれいんの傍に駆け寄ると、アトリエの明かりをつけた。
 れいんはその場に崩れ落ちた。激しい哀しみが、全身を震わせる。何か言おうと口を開いても、出
てくるのは嗚咽だけだった。
 
 「出て、行ってしまったの」

 れいんはやっとの思いで、それだけ言った。
 
 「そうか」

 たかはそう言うと、れいんの肩を抱き寄せた。

 「私、嫌なのよ。独りで老いていくなんて、耐えられないのよ。もう、独りになるのは、嫌なの
  よ」

 れいんは叫ぶようにそういうと、更に激しく涙した。
 彼女の言葉に、たかは打ちのめされたような表情を見せた。その顔を見て、れいんはなく事をやめ
るほど驚いた。

 「独りじゃないだろ」

 たかはそういうと、またれいんの肩を抱き寄せた。

 




 サロンに出展されたれいんの絵に対して、殆どの人はこう、印象を語った。

 「彼女の絵からは、親密さが伝わってくる」

 2匹の猫が日溜まりの中で寄り添いながら、幸せそうに眠っているその絵に、サロンは最高位の評
価を与えた。
 様々な美術批評家たちが「彼女は新境地を拓いた」と言い、また「猫の画家として不動の地位を築
いた」と評した。
 
 今、あの画架には新しい絵が掛けられている。猫に囲まれた一人の男が、とまどったようにこちら
を見つめている絵だ。
 その男のモデルの名前を尋ねられると、れいんはちょっと照れくさそうに答える。

 「夫よ」





 未完成のままの肖像画は、いつの間にかれいんのアトリエから紛失していた。
 
 それで良かったのだと、れいんは思っている。
 あの肖像画に、自分の魂を閉じ込めてしまうところであったと気がついたからだ。

 それでも時々、れいんは考える。
 あの絵を完成させていたら、どうなっていたのだろうか、と。
 
 当然、答は出ないのであるが。
fin