+猫アパートの住人+ |
503号室 |
あんは目の前に並べられた古ぼけた品々の中に、そのカップアンドソーサーを見つけた。 白磁に青い絵の具で丁寧に花文様を描いたそのセットは、どう見ても回りの品々と似つかわ しくない。 あんは店主を見るために、視線を上げた。だが、そこに人間の姿はなく、一匹の大きな黒 猫が優雅に寝そべっているだけだった。 あんとききの夫婦、それにアンとシャーリーという猫二匹は、通称「猫アパート」と呼ば れる、賃貸住宅に住んでいる。アパートの五階と六階が繋がった、タウンハウス形式の部屋 が二人と猫たちの住まいだ。 一階部分は、床も壁も天井も真っ白に塗られたワンルームで、主にききが仕事部屋として 使っている。所々に配されたマッキントッシュ様式の背の高い椅子や、背あてが格子になっ ている椅子などの家具、それに壁に掛けられたボタニカルアートのバラの絵などは、元々部 屋にあったものである。 部屋のほぼ中央に螺旋階段があり、その上が夫婦と猫たちのプライベート空間だ。 今朝もききは、窓の側に置いた作業台に向かっている。だが、最近はどうやら向かってい るだけ、のようだった。 あんは趣味が高じて始めた、ティールームのオーナーという仕事をしている。その店の名 前がチャールズ・レニー・マッキントッシュに因んだ「ザ・ウィロー・ティールーム」だっ たのは偶然だった。 「きき。最近、仕事どうなの」 朝食の席で、あんは思い切ってききに聞いた。このアパートに引っ越してきた当初は、あ んなにも忙しそうにしていたというのに。最近のききはどこかおかしかった。 「うん。ちょっと、休んでみようかと思って」 「どうしたの。体の具合でも悪いの?」 「いいや。体の方は絶好調だよ。昨日もピッチング練習で、100キロ出したぞ」 「ピッチング練習なんかしているから、疲れちゃうんじゃないの」 ききの趣味は、野球だった。高校、大学と野球部に所属していた彼だったが、プロになる ために必要な忍耐力が不足していたらしい。社会人になったと同時に、彼は野球をやめてし まったのである。 そんな彼は、近所の小学生達相手に野球を教えたり、あるいはピッチング練習をしたりし ている。どうやら、今でも野球に繋がっていたいらしい。 「最近さ、ちょっと考えていることがあってね」 ふいにききが、まじめな顔になるとそう言った。 「考えるていることって、何」 あんの顔を、ききは真正面から見つめた。そして、意を決したかのように一度大きく息を 吐くと、こう、言葉を続けたのである。 「オレ、プロテスト受けてみようと思うんだ」 あんは思わず、口に含んだコーヒーを吹き出した。慌てて口元を拭うが、今度はむせか えってしまう。 ようやく落ち着くと、彼女はききの顔を見返した。 「朝から、変な冗談言わないでよ」 「冗談じゃないさ。本気だよ」 あんは大げさに溜息をつくと、席を立った。 「本気ととってあげるとして、よ。宝飾デザイナーの仕事はどうするつもりなの」 「それは、それだよ。歳取ってからだって、出来る仕事じゃないか」 あんは、食器を流しで洗いながら、ききを見た。 「じゃ、それもそれとして。生活は?ここの家賃は?」 「ここの家賃なんて、タダみたいなものじゃないか」 それは、確かにそうだった。 契約したときに、思わず0の数をもう一度数えてしまったぐらいである。何でも、「猫 アパート」は猫さえ飼っていれば、格安で住むことが出来るらしい。 ききはキッチンまでやってくると、あんの顔を覗き込んだ。 「なぁ。仕事ってさ、二種類あると思うんだよ」 「へぇ?」 「一つは生活のための仕事。で、もう一つは人生のための仕事さ」 ききはロマンチストだと、あんは常日頃思っていた。だが、今日ははっきりと「ロマンチ ストだ」と断言することに決めた。 「ねぇ。きき。人間はロマンだけじゃ食べていけないわ」 「あん。君は自分が夢を実現したっていうのに、そんなことを言うのか」 これ以上、付き合っていられないと判断したあんは、会話を打ちきった。丁度皿も洗い終 わっていたことだし、別の話題に移行すべきだ。 リビングに戻ったあんは、アンを抱き上げた。日溜まりで気持ちよさそうに居眠りしてい たアンは、少々不服顔である。 「アン、最近元気ないと思わない」 「そうかな。それより、オレの話を聞いてくれよ」 あんはじろり、とききを睨め付けた。 「あなたは自分の事の方が、アンよりも大事だって言うのね」 その言葉に、ききはたじろいだ。 「い、いや、そんなことはないよ」 「アンはもう、年寄りだし…。もっと大事にしてあげないとね」 あんはアンをそっと床に降ろすと、今度はシャーリーを抱き上げた。シャーリーはアンと 違って、元気いっぱいである。その上、今にも何か悪戯をしようと画策をしている最中だっ た。 「シャーリー、この部屋に越してきてからは、家具に爪を立てなくなったわね」 シャーリーは早く計画を実行したかったらしい。体を捻ると、あんの膝から飛び降りてし まった。 「さて。じゃ、私は出かけてくるわ」 「今日は店、休みだろう」 「ええ。でも、今日は月に一度の骨董市があるのよ。ききも来る?」 来るはずない、と踏んでの問いかけである。思った通り、ききは断った。 この街の骨董市は、月に一度、アパートの前の大きな公園で開かれる。骨董市といって も、フリーマーケットのようなものだ。骨董から古本、はては子供の服まで何でも売りに出 ている。 その雑多な売り物の中から、掘り出し物を見つけるのがあんの楽しみだった。「ザ・ウィ ロー・ティールーム」で使用している食器の殆どは、こうした骨董市で手に入れたものであ る。中には貴重な逸品も含まれているが、殆どは値段に関係なくあんが気に入ったものだけ を、集めていた。 「そりゃ、ききの気持ちも分かるけどさ」 あんはひとりごちた。人によっては、がらくたとしか写らない品々のなかを歩きながら、 あんは暗い気持ちになった。 あんの店は、彼女が幼い頃から夢に見ていたものだ。その夢の実現に、ききがどれ程協力 してくれたか、思い出したのである。 「でも、野球とティールームじゃ違いすぎよ」 あんはオールド・ノリタケ調のカップを手にとると、呟いた。店主は近所の主婦らしく、 隣の店主を相手に世間話に花を咲かせている。 あんはカップを下に置いた。 そして、次に目に留まったのはボーンチャイナに青い花文様が描かれた、カップアンド ソーサーだった。 手にとって、まじまじと見つめてみたが、本物のボーンチャイナに見えた。しかも、おそ らくウェッジウッドのものだ。青い花は、オールドローズを描いたものらしい。 あんの知識が正しければ、この手のウェッジウッドは非常に貴重なものだ。カップアンド ソーサーといっても、数万円の品である。 しかし、回りに置いてある物はただのがらくたにしか見えない。もしかすると、売り物で はなくて、客引きのための商品かもしれない。 そう思ったあんは、目線を引き上げて店主の顔を拝むことにしたのだ。だが、そこにいる のは立派な毛並みの黒猫だった。黒猫は、じっとあんを見つめ返している。 「あなたが、ここの店主なの?困ったわ。猫語はあんまり話せなくて」 「そのカップが気に入ったんですか」 猫がそういった。 あんは驚いて、もう一度猫を見た。 「ええ、そう。気に入ったわ」 「じゃ、差し上げますよ。お察しの通り、それは売り物じゃないんです」 声のする方向が、猫の方ではないと気が付いたあんは、振り返った。 猫が流ちょうに人語を話せる筈はなく、いつの間にか戻ってきた店主があんの後ろに立っ ていただけだったのである。 店主は背の低い女性だった。あんは黒猫と、女性を交互に見た。 「あの猫は、あなたの猫ですか」 「ええ、そう」 女性はにっこりとすると、あんの手からカップアンドソーサーを取り上げた。 「それで、どうしますか?あるべきところで、これを使ってくれますか」 「あるべきところ…ですか」 女性はカップを包装しながら、あんに微笑みかける。 「ええ。ものには適材適所って、あるでしょう?この食器もがらくたの中にあったので は、ただの役立たずになってしまいますわ」 女性は包装を終えると、それをあんに手渡した。 「あなたのお店で使っていただけたら、カップも喜びますわ」 「どうして、それを?」 女性はあんの問には答えずに、微笑んだ。そして、例の大きな黒猫をそっと撫でた。 あんは口の中で礼を言うと、何故か後ろめたい気持ちになってその場を離れた。 その気持ちは、タダで高価な品物を貰ったという事への罪悪感ではなく、なにか、もっと 違う事への罪悪感だった。 それはおそらく、ききに対しての感情だ。 どうしてあんなに、反対したのだろう。一番ききの気持ちを理解できる筈の自分が。 あんは、そんな思いに捕らわれていたのである。 「そうよね。プロテスト受けるだけなら、ね。別に落ちたって、今の仕事すればいいだけ だもんね」 あんはそういいながら、道路を渡ってアパートに向かった。その胸に、カップアンドソー サーを大事に抱えて。 |
fin |