猫アパート203号室
|
コーシローは溜息をつきながら、キッチンの調理台に鎮座する相棒を眺めた。見事な純白のヒマラヤン は、その神秘色の瞳でコーシローを見上げると、溜息をこぼした。 目の前に彼女専用の器…コーシローが羽振りの良かった時代に買ったバカラのカットガラスだったが… に盛られた忌々しいにおいのする、レバーのパテを模した食べ物らしき「ゴミ」に鼻面を寄せると、再び 溜息をついた。 コーシローは冷蔵庫の脇に積んである「お徳用五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」を恨めしげに睨 んだ。 ヒマラヤンのマリリンとコーシローの付き合いは長い。自分が食事をとれなくても、マリリンには七面 鳥のパテをこしらえてきた。しかし、いかんせん、最近仕事がめっきり減ってしまったのである。気がつ いてみれば、財布には硬貨が二枚ほどと、しわくちゃになってしまった最低金額紙幣が一枚きりという有 様である。 「頼むよ。マリリン。食べてくれよ」 コーシローの哀願虚しく、マリリンはくそ不味い「ゴミ」のような缶詰を食べるよりも、飢え死にする ことを選んだ。その証拠に、くるりと食事…仮にそれを食事と呼べるなら、だが…に背を向けると、豊か な尻尾を忌々しげにうち振ったのである。 軽々と調理台から飛び降りた彼女は、このアパートメントでもっとも居心地の良い場所、すなわち彼女 専用のゴブラン織りクッションが置いてある窓辺へ歩み去ってしまった。 コーシローはしばらく呆然とマリリンを見送った。ポケットに手を突っ込み、薄っぺらい財布を取り出 す。 中身をもう一度確認したが、増えているはずもない。仕方なく、彼はたった一枚残った紙幣に別れを告 げる決心をした。 「出掛けてくるよ、マリリン。気が向いたら、食べてくれよ」 そう言い残すと、コーシローは「お徳用五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」を小脇に抱えて、ア パートのドアを閉めた。 コーシローの住むアパートは、通称「猫アパート」と呼ばれている。大きな公園に面して立てられた、 豪華な建物だ。しかし、そのアパートのオーナー夫婦はかなりの変わり者らしく、猫を飼っている人間に なら、格安で部屋を賃貸しているのである。 オーナー夫婦の部屋はアパートのペントハウスで、オーナーは屋上に空中薔薇園を作るほどの薔薇好き である。オーナー夫人の姿は滅多に見られることはないが、時々通称「陛下」と呼ばれている黒猫と、公 園を散策する姿を見ることがあった。 どの貸間もゆったりとした間取りと、充分な採光がある。広々とした居間や寝室に趣味の良い家具が備 え付けられている部屋もあった。家具付きの部屋は、ついていない部屋よりも多少家賃が高いらしい。 コーシローが住んでいるのはそんなアパートの203号室だった。 「お隣はまた猫が増えたらしいから、喜んでくれるだろう」 彼はそう呟くと、隣の部屋の呼び鈴を鳴らした。 部屋のドアが開き、長い黒髪のちょっとした美人が不審そうにコーシローを見た。 「こんにちは。隣のハギモトです」 「あら。こんにちは。何かご用ですか」 彼女の後ろではアメショー達が好奇心満々の目で、コーシローを窺っている。その中に、黒い小さな仔 猫を認めて、コーシローは思わず微笑んだ。 「くぅちゃんは元気になりましたか」 「お陰様で。元気すぎるぐらいですよ。お転婆になっちゃって」 黒い仔猫は先日、体調を壊していたのである。 「あの。これ。宜しかったら」 コーシローはおずおずと「お徳用五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」を差しだした。 「まぁ!いつもすいません。宜しいんですか」 「え、ええ。ちょっと買い過ぎちゃいまして。じゃ、私はこれで」 「お茶でもどうですか」 「い、いいえ。またの機会に」 後ろめたい気持ちを悟られまいと、コーシローは早々にお隣との会話を打ちきった。 エレベーターホールで、階段で下りようかどうしようか迷っているとエレベーターが止まった。扉が開 く。コーシローは乗り込むと、コーシローは乗り込むと、牛柄の猫を抱えている女性の隣に立った。 「こんにちは。お出かけですか」 猫の背中越しに、その女性はにっこりしながら、コーシローに尋ねた。 「ええ。まぁ。マリリンの食事を買いに」 「あら。昨日スーパーで買ってませんでしたか」 その女性とコーシローは昨日、スーパーで偶然出会ったのである。同じアパートの住人だと知り、連れ だって帰ってきたのだ。 「え、あ、ああ…その。いや、私の食事を買いに」 何も彼女に言い訳しなくても良いのだが、罪の意識に苛まれているのだろう。ついつい、要らないことも 口走ってしまう。 「そ、そういう奥さんは」 女は再びにっこりした。 「畝傍をね、公園で遊ばせようと思って」 「今日は天気も良いですからね」 「ええ」 アパートの入り口で、コーシローは女と別れると、三ブロック先にあるスーパーへ向かった。 と、その時である。 車道を走っていた一台のリムジンが、コーシローの脇に横付けになった。ビックリして立ち止まった コーシローの目の前に、リムジンの窓がある。音もなくスモークガラスが下がると、艶やかな美女がサン グラス越しにコーシローを見つめていた。 「お久しぶりね。コーシロー」 「お久しぶりって…ホントだよ。今度の仕事はなんだ」 「相変わらず、せっかちね。乗って頂戴」 コーシローはリムジンのドアを開けると、車内に乗り込んだ。音もなくリムジンが走り出す。女は見事 な脚線美を見せつけるように足を組むと、シャンペングラスをコーシローに差しだした。 「思っていたより、良い生活できてるみたいじゃない」 女は見えないはずの後ろを振り返った。アパートのことを言っているのだろう。 「あそこのアパートの大家は、変わり者なんだ。猫さえ飼ってれば格安で借りられるんだよ。君も猫を 飼えばいいじゃないか」 女は格好の良い唇を、微笑の形にゆがめた。真っ赤な口紅が女の艶やかさを益々際だたせるようであ る。 「おあいにく様。私は犬の方が好きなのよ。猫は何を考えているか分からなくてキライだわ」 「ふーん。自分に似ているから嫌いなわけか」 「何か言ったかしら」 「誉めただけだよ。で。世間話するために、わざわざ来たんじゃないだろう」 女は一葉の写真をコーシローに見せた。 ひげ面でターバンを巻いた、色の浅黒い男が写っている。 「この男がターゲットよ」 「どこに住んでいるんだよ」 「あなたのアパート」 「知らないなぁ」 コーシローは写真をもう一度見てみた。しかし、心当たりはない。そういえば、最近引っ越ししてきた 住人がいたようだ。しかし、コーシローが見たのは、その引っ越しの様子だけであり、新しい住人の姿は 見たことすらなかった。 「あなたは閉鎖的な性格なのね。それがこの道で成功しているコツみたいなものでしょうけど。どうか しら。やってくれるわよね」 コーシローは写真を返しながら、女を見た。 「そうだな。条件がある」 「新しい銃や必要な機材ならいつものように言って頂戴。すぐに用意させるわ」 「当たり前だ。そうじゃない」 「じゃぁ、なにかしら」 「マリリンの食事代をくれ」 数分後、山のような食材を両手に抱えてコーシローは上機嫌でマリリンの元に帰った。 「ただいま、マリリン。どうだい。食事はとったかな」 マリリンはコーシローの足首に、柔らかく自分の顎をこすりつけている。当然、調理台の器は出掛ける 前の状態と変わっていない。しばらく放って置かれていたせいか、表面が乾いていた。 「今すぐ、食事の用意をするからな。待っててくれよ」 マリリンは美しい声で一声鳴くと、調理台の上に飛び乗った。 「お徳用五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」をゴミ箱にぶち込み、コーシローはバカラを洗った。 鼻歌交じりに、仕入れた新鮮なホロホロ鳥をさばくと、軽く塩コショウし、バターで炒める。その際 に、ローズマリーを一片入れる。VSOPでフランベし、仕上げにオレンジの絞り汁を加えた。 マリリンは喉を盛大に鳴らし、自分の器の前で行儀良く両手足を揃えて食事の準備が出来るのを待って いる。 普通猫は柑橘類の匂いを嫌がるが、マリリンはこのホロホロチョウのオレンジソース掛けが大好きだっ た。 マリリンの口に合わせて、コーシローが小さくご馳走を刻み、品良く器に盛りつける。 「さぁ。どうぞ。女王陛下」 コーシローの言葉を合図に、マリリンはホロホロチョウを一口、二口…余程腹が減っていたのだろう。 ものの三分で平らげてしまった。 コーシローはマリリンの食事を作った鍋で、自分のチキンを焼き、三日ぶりの蛋白源をありがたく頂戴 した。 「この男はテロリストなのよ」 女はそういうと、分厚い資料をコーシローに手渡した。 「先日来、某国で起こっている連続テロ事件の主犯なの」 「そうだとわかっていながら、なぜなんにもしないんだ」 コーシローの疑問に、女は謎めいた微笑を返した。 「だから。あなたに頼むのよ。この男を公式に捉えたら、某国は陰謀を企てたものを知っていながら今 まで見過ごしてきた理由を、公表しなくてはならなくなる」 「つまり、今までその某国とやらもこの男から、なんらかの恩恵を受けていたわけだな」 女はその問には答えずに、もう一枚の写真をコーシローに渡した。 「これはこの男の部下よ。どう。見たこと無いかしら」 そこに写っていた写真に、コーシローは眉をひそめた。 「さぁ。わからんな。この写真は貰えるんだろ」 「資料と一緒に、入っているわ。全身写真と、顔のアップとね。それより。気をつけて頂戴。今回の ターゲットは一筋縄ではいかないわ。変装の名人なのよ」 「変装つったって…元の顔がこれだろ」 コーシローはひげ面の写真を指で弾いた。女は首を振ると言った。 「さぁ、分からないわ。とにかく、部下の方は顔を変えないみたいだから。こっちをマークした方が、 早く片が付くかも知れないわ」 「厄介な仕事だな」 「その代わり、手数料は弾むわよ。通常の1.5割増しにするわ。マリリンちゃんのご飯とやらも、し ばらくチキンレバーを食べさせてあげられるでしょ」 コーシローはその申し出を鼻先で笑った。 「悪いが、それじゃぁ、ダメだな」 「勿論、成功報酬は別に渡すわ。あなたには断れないはずでしょ」 「いいや。断る」 女はサングラスの奥で、おそらく目を剥いているに違いない。 「マリリンの食事代はオレよりかかるんだ。チキンレバーなんか食べやしないしね」 「財布の中身が空に近い男にしては、威勢のいいお言葉ですこと」 「だからこそ、言ってるんだよ。あんたも、マリリンのことは知っているだろう」 女は溜息をついた。 「分かったわ。マリリンの食事代は、今後必要経費として認めるわ」 「じゃ、早速。とりあえず、オレの食事代も含めてこれぐらいで」 コーシローの提示した金額分を、女は小切手に書き付けると、コーシローに手渡した。 「毎度っ」 コーシローは今まで一度も仕事をしくじったことはない。 それどころか、彼の仕事の腕は天下無敵のものだった。そうは見えない外観と、人当たりの良さが相手 の警戒を解き、気がついたときにはすでに遅し、という状況をいともたやすく作り出す。 彼こそは闇の世界でもその存在を恐れられている、ヒットマン…すなわち殺し屋だった。 殺すのは人だけではない。 場合によってはコンピューターを駆使し、相手のマザーコンピューターを「殺す」こともあった。そう いった場合、労力は人を殺すよりも数段かかるのであるが、報酬はイマイチである。 もっともそちらの方は、コーシローにとって趣味みたいなものだったが。 マリリンとコーシローはずっとコンビを組んでいた。 マリリンの首に巻いてある、ベルベットのリボンにはハート形にカットされた宝石がついているのだ が、それは精巧なカメラアイであり、必要な情報をコーシローに送ってくれるのである。 特にターゲットが女性であった場合、このマリリンは実に上手いこと相手を懐柔する。 コーシローはアパートの住民を知るために、オーナー夫婦の部屋を訪れることにした。 よく考えてみれば、オーナ夫婦と話を交わすのは、初めてであった。 マリリンを抱きかかえて、彼はペントハウスの前に立った。噂通り、アパートの屋上はさながら小さな 薔薇園の様相をしていた。というより、ペントハウス自体が薔薇園である、と言った方が良かったかも知 れない。 ガラス張りのペントハウスは、まるで植物園のようだった。 入口を捜し当て、コーシローは呼び鈴を鳴らす。 人が出てくる前に、噂の「陛下」が優美な容姿を現した。彼に遅れること、数秒。小柄な女性が玄関の 扉…と言っても、これもガラス張りなのだが…を開けた。 「いらっしゃい。ハギモトさん」 彼女はにっこり笑うと、コーシローとマリリンを迎え入れた。 「何故、私の名前をご存じなんですか」 女はおほほほ、と笑うと 「いやですわ。自分のアパートの住人ぐらい、存じておりますよ」 と、こともなげに答える。 「しかし、私はあなたとお会いするのは初めてですし」 「うちのアパート、古いからってセキュリティがなってないと思われてましたのね」 彼女はそういうと、壁の一部を触った。 ブロックガラスで出来ている壁が後退し、そこに小さな部屋が現れた。一面にビデオモニタが並べられ ており、アパートのフロアー名と、エントランスなどの名称がそれぞれのモニターに付けられている。 「アパートに出入りするものは、こうして二十四時間監視してますの。私が休むときはビデオに録画し て、翌朝全てもう一度チェックしてますわ」 これで、彼女が滅多に姿を人前に見せない理由が分かった。ここで一日中、モニタの監視をしていたわ けである。 「疲れませんか」 「あら。アパートの住人を守るのが、オーナーの仕事ですもの。だからこそ、お家賃を頂戴できるんで しょう」 その家賃だって、タダみたいなものだが…という一言は、己の保身のためにもコーシローは飲み込ん だ。余計なことを言って、このちょっとずれている感性の持ち主に、常識を思い出させて家賃の値上げな どされたらたまらない。 「もしかして、本気になさったの」 「えっ」 オーナー夫人は悪戯っぽく微笑むと、部屋の入り口を元通りに直した。 「イヤですわ。私だって一日中モニタにかじりついてなんかいませんわよ。ビデオを録っているのは本 当ですけどね」 「それを聞いて、安心しましたよ。でも、ビデオは今までの全部とってあるんですか」 「ええ。わたくしどもがこのアパートのオーナーになってからずっと。ざっと、十年分かしら」 次ぎにコーシローが通されたのは居間らしきところだった。 目の前に床から直接水が湧き出る噴水があり、その回りに椅子とティーテーブルが並べられている。直 射日光を避けるためか、その居間らしき場所の天井には帆布が掛けてあった。 「紅茶で宜しいかしら」 「あ、お構いなく」 今まで大人しくしていたマリリンが、コーシローの腕からするりと飛び降りると、噴水の水を飲み始め た。 「こ、こら、マリリン。やめなさい」 コーシローの制止などまるで無視して、マリリンはさも旨そうに水を飲んでいる。 「いいじゃありませんか。あそこは陛下の水飲み場でもあるんです。汚い水じゃありませんから、安心 なさって」 オーナー夫人はそういうと、コーシローとマリリンを残して紅茶を入れるために台所へ行ってしまっ た。 黒猫の「陛下」はマリリンと鼻をつき合わせて挨拶をすると、ゆったりと一番豪華に見えるアンティー クの椅子に横たわった。マリリンはコーシローの膝に飛び乗る。 午後の暖かな日差しが、帆布を通して感じられてコーシローは眠くなってしまった。しかし、オーナー 宅を訪れた理由を思い出し、彼は頭を振ると眠気を追いやる。 目の前の噴水で顔を洗ったらすっきりするだろうか、と考えているとオーナー夫人が夫を伴って再登場 した。 夫人と違って、巨躯の夫君は真っ黒に日焼けした顔に、人の良さそうな笑みを浮かべている。 「いらっしゃい。ハギモトさん。私の薔薇はご覧になりましたか」 住人の話では、薔薇談義を始めると一時間は話し続けるらしい。 「いえ、ちらりとは…見ましたが」 「それはいけない。案内しましょう」 コーシローが答えに窮していると夫人が助け船を出した。 「あなた。昨日、三階の方から、夜になるとシャワーの水圧が下がるってクレームが来てたわ。新しく 入ったボイラー係の方に夜間の見回りもお願いしてきてくださるかしら」 オーナーは渋々と夫人の言葉に従った。夫人は申し訳なかったわ、というとティーカップをコーシロー に差しだした。 「お砂糖はいりまして」 ほっとして、コーシローはティーカップを受け取った。 「あ、じゃ、あの、一つ」 オーナー夫妻を口八丁で丸め込み、コーシローはまんまとセキュリティ用のビデオテープを借り出すこ とに成功した。 自分の部屋に戻った彼は、コンピューターとビデオ編集機材を起動させて、借りたビデオを一本づつ、 見る。 そして、彼はとうとう今回のターゲットを発見した。 「こんな処に隠れていたとはな」 そう呟いたコーシローに、いつもの穏和な表情はなかった。 あるのは、冷たい事務的な殺意だけだった。 レイヴェンは内心、気が気でなかった。 最近、彼の身辺にチョーサーと呼ばれる監視者が現れたらしいと腹心の部下、カリオスに言われたので ある。 しかし、身を隠しているこのアパートに引っ越ししてきてからというもの、そういった情報は皆無だっ た。それが逆にレイヴェンを恐怖で満たしている。 アパートのボイラー係に身をやつしているのは、何も金がないからではなかった。この古い建物には昔 レジスタンスの隠れ場所として使われていた地下室がある。そこに彼は自分の私財を隠していたのだ。住 民に見つからずに財産を隠し、また、いざというときすぐに取り出せる環境を手に入れるために、彼はボ イラー係となったのである。 もとより百の仕事をこなす男と恐れられている彼にとって、ボイラーの仕事なぞ、朝飯前のことだっ た。ちょっと頭の緩いオーナー夫人に取り入って、紹介状もない彼を雇わせたのである。 「ネコバカってのは猫好きは自分の友達だと思うんだ」 レイヴェンはカリオスにそういって、オーナー夫人を陰で嘲笑っている。 もとよりレイヴェンは猫が嫌いだった。あの忌々しい、気持ち悪い目と、あのうるさい鳴き声と、汚ら しい毛皮。 思い出すだけでも吐き気がする。 レイヴェンは砂漠を彷徨うベドウィンだった頃、それは素晴らしいアフガンハウンドを飼っていた。犬 は優美であり、勇気と忠誠の象徴だ。猫のように卑しいところなど、微塵もない。 彼は自分の才能でのし上がり、今の地位を築いた。傍らには犬のように従順な兵士カリオスが常に付き 添い、彼を補佐している。 このごたごたが片づいたら、カリオスに休暇をやらねばなるまい。そう言えば今日はまだカリオスの顔 を見ていない。昨夜、薔薇キチガイのオーナーに言われて夜の間寝ずの番をしていたから、まだ起きてこ ないのだろう。 熱い蒸気が噴き出す中で、レイヴェンはそんなことを考えていた。 ふと、足下に何かが触れてレイヴェンは仕事の手を休めた。 そこに、くそいまいましい白猫が、彼の作業靴にひげをこすりつけているのを見つけ、レイヴェンは怒 りに我を忘れるところだった。 乱暴に猫を持ち上げると、力任せに地面に叩きつけようとする。 だが、猫は空中でひらりと身を翻すと、軽やかに足から地面に着地した。真っ青な目が責めたてるよう にレイヴェンを見つめる。 「くそ忌々しいアパートだ。どこにでも猫が入り込んできやがって」 レイヴェンは怒りにまかせて、白猫を踏みつけようとした。 と、その時である。 「うちのマリリンに、何をする気ですか。レイヴェンさん」 レイヴェンの名前を知っているものは、この国にはいないはずだ。ただ独り、カリオスを除いて。だ が、声の主は明らかにカリオスではなかった。 レイヴェンはそっとポケットの中に右手を差し入れた。そこにいつも銃を隠し持っているのである。 「どなたですか」 レイヴェンは振り返りながら、そう聞いた。 その鼻先にサイレンサーをつけたコルト銃が突きつけられた。 「まぁ、あんたに恨みはなかったんだけど。たった今、出来たよ」 「な、なんのことです」 「レイヴェン。おとぼけはなしだ。あんたの部下はとうにオレが始末しといたから」 レイヴェンは両手を挙げて降参する振りをした。相手が一瞬銃を引いたその瞬間、レイヴェンは鋭い蹴 りを相手の顎に見舞った。 地獄のような砂漠の国で、レイヴェンは人を倒す術を身につけて生きながらえてきたのである。相手が よろけたのを見て、レイヴェンは銃を抜いた。 「どこの誰だか知らないが、今オレを殺したら困る国があるって事を知らんようだな」 男は頭を振りながら体勢を立て直すと、笑った。 「そのあんたを庇護していた国が、あんたを消そうとしてるんだよ」 「言いたいことはそれだけか。あばよ」 レイヴェンの指がトリガーにかかった。 その時である。 白い稲妻がレイヴェンの顔に襲いかかった。激しい咆吼を上げたその野獣は、レイヴェンから銃を奪う と、暗闇に消えていった。 あまりにも突然の出来事で、レイヴェンは自分に何が起きたのか分からなかった。 「あばよ」 男はそういうと、なんのためらいもなくレイヴェンに鉛の弾を撃ち込んだ。 マリリンは今朝の食事に不満そうだった。 その証拠にバカラに盛られたチキンレバーを見ようともしない。 コーシローは肩を竦めた。 「分かったよ。命の恩人にはそれなりの礼をしろって言うんだろ」 そういうと、戸棚の奥から楕円形の缶詰を取り出した。途端に、マリリンはゴロゴロと喉を鳴らし始め る。 「はぁ。オレも食べたかったんだけどなぁ。フォアグラ」 マリリンが旨そうにフォアグラのコンソメゼリー寄せを食べていると、玄関チャイムが鳴った。 「はーい」 扉を開けると、独りの女性が「お徳用五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」を抱えて立っているのが 目に入った。 「あの…」 「あ、確か…えっと…四階にお住まいの…オペラをやってらっしゃる…」 女性は顔を真っ赤に染めると俯いた。 「ご、ごめんなさい。うるさいですか」 「いえ、全然。聞こえても来ません。で、なんでしょうか」 「あの。図々しいと思いましたが…実はこれ」 彼女はおずおずと「お徳用五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」をコーシローに差しだした。 「うちの猫はもう、亡くなってしまって…それで、あの。宜しかったらお宅のネコちゃんにどうかと 思って」 その「お徳用五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」は紛れもなく、数日前にコーシローが隣の美人妻 に押しつけたものだった。一缶欠けて四個セットになっているところといい、間違いあるまい。 巡り巡って、コーシローの手元に戻ってきたのである。コーシローは頭を掻いた。 「悪いことは出来ないもんですねぇ」 「は」 きょとんとするオペラ歌手に、コーシローはにっこりした。そして、本来自分のものであった「お徳用 五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」を受け取った。 部屋に戻ってみると、マリリンは食事を済ませており、ゴブラン織りのクッションの上で優雅に毛繕い をしていた。 その平和な姿に、コーシローは再び微笑んだ。 数日後。 「お徳用五個セット・にゃんとわんだふるDX缶」は外猫の世話をしているという女性に無事、全て譲り 渡すことが出来た。ほっとしたのはコーシローだけではなく、マリリンも同様だったのだが、そのことは コーシローにはあくまでも内密の話である。 終わり |